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元祖二刀流ベーブ・ルースがホームランを打った小倉到津球場の跡地を散策

2022年4月12日

大谷選手の大活躍でレジェンドの偉業が蘇る

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2021年、アメリカ・MLBのロサンゼルス・エンゼルスに所属する大谷翔平選手が大活躍。MVPを獲得するなど大きく評価された年でした。

大谷選手は「投手」と「打者」の両方で素晴らしい成績を残し、1年通して「二刀流」を継続。投打両方をこなせる選手しか樹立できない記録がメディアで取り上げられていきました。

まず2021年4月21日には、当時ホームランダービーのトップだった大谷選手が先発ピッチャーとして登板。これは1921年6月13日のベーブ・ルース以来、実に100年ぶりの記録でした。

また年間記録では、同じくベーブ・ルースが記録した「投手として2ケタ勝利、打者として2ケタ本塁打」という記録を大谷選手が達成するのではないかと話題になりました。

ひとくちメモ


ベーブ・ルースは1918年に投手で13勝、打者で11本塁打を記録しています。

打者としては46本塁打で文句ナシだった大谷選手、しかし投手では最後の1勝がどうしても届かず9勝止まり。ベーブ・ルース以来103年ぶりとなる大記録はお預けとなりました。

かつてイチロー選手がメジャーリーグの記録を次々と更新し、

  • ジョー・ジャクソン(新人最多安打の記録を90年ぶりに更新)
  • ウィリー・キーラー(9年連続200安打の記録を108年ぶりに更新)
  • ジョージ・シスラー(シーズン最多安打の記録を84年ぶりに更新)

など、レジェンドたちの記録が現代に次々と掘り起こされ、再び称賛されたことがありました。

大谷選手もまた、ベーブ・ルースというレジェンドの偉業が1世紀ぶりに称賛され、「元祖二刀流」と呼ばれるキッカケを作ったと言えます。

ひとくちメモ


2022年8月10日、大谷選手はアスレチック戦に先発し、投手として10勝目を達成。打者としても25号本塁打を放ち、ベーブ・ルース以来104年ぶり、史上2人目となる「投手として2ケタ勝利、打者として2ケタ本塁打」の偉業を達成しました。

「北九州市民球場」とは別の球場が存在した

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そんなベーブ・ルースなのですが、先日テレビを見ていた時のこと。

ベーブ・ルースをはじめとするメジャーリーグの代表チームが日本にやって来て、我が街・北九州でも試合をしたことがある、という情報が流れたのです。しかもベーブ・ルースはホームランまで打っているとか。

北九州の球場といえば、「北九州市民球場」があります。福岡ソフトバンクホークスの準本拠地で(本拠地は福岡市のペイペイドーム)、年に何度かプロ野球の試合が開催されています。

しかし、日米野球が開催されたのは「北九州市民球場」ではなく、「小倉到津球場」だったとのことでした。

到津(いとうづ)に球場? 見たことも聞いたこともない。現在は動物園になっている「到津の森公園」が昔は球場だったのだろうか?

ネットで調べてみたところ、いろいろ分かってきました。

昭和9年、小倉到津球場で開催された「日米野球」

まず、小倉到津球場は1923年(大正12年)に完成し、翌1924年(大正13年)に開場。廃止された年は不明で、おそらく第二次世界大戦の時期ではないかとのこと。

ベーブ・ルースを含むアメリカ代表チームが日本にやって来たのは1934年(昭和9年)。日米野球は全国各地で開催され、静岡県の草薙球場では当時まだ17歳だった沢村栄治投手が8回を投げて9奪三振1失点の好投を見せるという伝説も残っています。

他に富山県富山市の神通球場や、兵庫県の甲子園球場、そして今回紹介する小倉到津球場などで開催されたのだそうです。戦績はアメリカが16戦全勝だとか。

当時の日本チームにプロ選手はおらず、プロ野球自体もまだ存在していなかったのだそうです。この日米野球が終了した直後の1934年12月、全日本代表チームの選手を中心として「大日本東京野球倶楽部」が結成されています。後の巨人(=読売ジャイアンツ)です。

小倉到津球場での日米野球は1934年11月26日。雨天だったそうです。5つの市が合併して出来た「北九州市」ですが、当時は合併前の「小倉市」でした。

小倉到津球場、跡地のカギは「上到津二丁目」

小倉到津球場はどこにあったのか。調べてみると意外な場所でした。

上到津二丁目交差点
「上到津二丁目」交差点

国道3号線に「上到津二丁目」という交差点があります。北へ直進すると「戸畑バイパス」となり、西へ左折するとすぐ「到津の森公園」があります。

交差点の一角には紳士服の「はるやま小倉到津店」があります。看板が大きいので、この交差点を通った人ならみんな知ってるのではないでしょうか。

そして、ここが小倉到津球場の跡地です。最初それを聞いてビックリしました。

はるやま小倉到津店
看板下に三角形の物体が…

「はるやま」の大きな看板の下に、三角形の物体があります。

小倉到津球場の記念碑
小倉到津球場跡の記念碑

接近してみると、ここに小倉到津球場が存在したことを示す記念碑でした。

記念碑の周囲は緑色の地面になっていて、スタジアムっぽい形状になっています。この緑色がそのまま球場を表しているのであれば、ちょうど記念碑の辺りはキャッチャーの後方バックネットだったということなのかな。

小倉到津球場跡の記念碑

さらに接近。中央に「小倉到津球場跡」、その左側に「九州旅客鉄道株式会社」と彫られてます。JR九州がこの記念碑を設置したようですね。

そのさらに左側は「平成元年九月建立」と読めます。記念碑が設置されたのは1989年だったようです。

記念碑にはベーブ・ルースの写真もある!

小倉到津球場跡の記念碑
小倉到津球場跡の記念碑

記念碑は三角すいの形状で、3面あります。それぞれに何やら文字が書かれていました。

小倉到津球場の由来
小倉到津球場の由来

この地は、左翼八十五メートル、右翼百二十五メートルの矩形型をした小倉到津球場跡で、大正十二年建造されました。

当時、九州野球界のメッカとして、製門戦等がさかんに行われ、数多くのプロ野球選手を輩出するなど、ファンに広く親しまれていました。

昭和九年十一月二十六日、日米野球対抗戦に於いて球界のスーパースター、ベーブルースが出場し、七回裏右翼観覧席へ、予告ホーマーを放ち、ファンを魅了したエピソードを残しています。

レフトが85メートルに対してライトが125メートルという長方形のような形の球場だったことや、ベーブ・ルースは125メートルのライトスタンドにホームランを打った(しかも予告ホームランだった)ことが紹介されています。

製門戦」というのは、「八幡製鐵所」の野球部と「門司鉄道局」の野球部が対戦した定期戦だそうです。早稲田と慶応の定期戦を「早慶戦」と呼ぶようなものですね。

日米野球の先発メンバーとベーブ・ルース写真
日米両軍の先発メンバー表と、ベーブ・ルースの写真

記念碑のもう1面には、小倉到津球場でおこなわれた日米野球の先発メンバー表と、試合のスコア(日本が1点取ってる)、ホームランを打った時のベーブ・ルースの写真もあります。これはスゴい。

1934年というと、ベーブ・ルースがニューヨーク・ヤンキースに所属していた最後の年で、翌年にボストン・ブレーブスという球団に短期間所属した後、現役を引退しています。

先発メンバーを見てみると、アメリカの4番バッターにルー・ゲーリッグの名前もあります。

ヤンキース時代は「3番ルース、4番ゲーリッグ」というコンビで何度もワールドチャンピオンとなっており、そのまんまの打順で日本でも試合をしてくれたことが分かります。

ひとくちメモ


ルー・ゲーリッグは1939年に「2130試合連続出場」という偉大な記録を打ち立て、「鉄人」と称されました。
 
そのゲーリッグの記録を更新したのは1987年、広島カープの衣笠祥雄選手(故人)でした。衣笠選手は2215試合まで記録を伸ばしました。
 
さらに衣笠選手の記録を更新したのは1996年、ボルチモア・オリオールズのカル・リプケン選手でした。リプケン選手は2632試合まで記録を伸ばし、これが現在の世界記録です。
アクロスプラザいとうづ
球場跡は現在、商業施設となっている

小倉到津球場が解体された後、当時の国鉄(現在のJR九州)が跡地に宿舎を建設していたそうです。その宿舎も廃止されて解体され、2012年に商業施設「アクロスプラザいとうづ」が開業しています。「はるやま」の奥にあります。

アクロスプラザいとうづ駐車場
「アクロスプラザいとうづ」駐車場

家電の「エディオン」、スーパーの「アルク」、飲食店の「MKレストラン」や「くら寿司」もあり、駐車場はとても広いです。

アクロスプラザいとうづ駐車場

今から1世紀も前、この地で「元祖二刀流」ベーブ・ルースがホームランを打ったんですよ。そんな場所が身近にあるなんて知りませんでした。

ルースやゲーリッグがここで野球をしていた姿を想像すると、とても不思議な気分になれますよ。野球好きな方々、一度訪れてみてください。

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