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飯塚・旧伊藤邸を初見学し、伊藤伝右衛門と柳原白蓮に思いを馳せる

2012年3月3日

2007年4月から一般公開が開始された

ウォーキング新飯塚編で寄り道して、一度訪れてみたかった嘉穂劇場の中をゆっくり見学してきたが、もう1つ、会社の同僚や友人たちからオススメだよと絶賛され気になってた旧伊藤邸も初訪問してきた。今回のウォーキングは途中から完全に観光モード。

飯塚市の「ひいな祭り」巡り、麻生大浦荘で大きな勘違いに気付く

2012年2月26日(日)。この日は福岡県飯塚市を歩いてきました。この時期の飯塚市は街をあげて可憐なひな人形が各会場にて展示され、さらに今年は長崎街道の筑前六宿が開通してから400周年ということもあり、活気に満ち溢れていました。

飯塚・嘉穂劇場を見学し、芸を愛する人々の心と災害復興の思いに触れる

ウォーキング新飯塚編のコース途中にあった歴史のある大衆劇場、嘉穂劇場。当初は立ち寄らないつもりでしたが、滅多に来ない場所ということもあり、ウォーキングを中断して中を見学することにしました。予想以上に面白く興味深い空間でした。

旧伊藤邸とは、筑豊の炭鉱王と呼ばれた伊藤伝右衛門が明治時代の中期に建てた大邸宅。

伊藤は昭和22年(1947年)に亡くなり、いったんは屋敷が売却され、その後に取り壊す案も浮上したらしいのだが、文化遺産として旧伊藤邸を遺そうという飯塚市民などの署名活動により、飯塚市が買い取ることに決まった。

その後、修復作業が進み、平成19年(2007年)4月28日から一般公開を開始。

当初、飯塚市は初年度の来場者数を15,000人ほどくらいじゃないかと見込んでいたらしいのだが、翌年(2008年)の4月28日に発表された1年目の総入場者数は、なんと247,175人

見込み違いにも程があるだろw

さすがに初年度のフィーバーが異常過ぎて、以降は毎年少しずつ入場者数も減少傾向にあるらしいのだが、それでも平成22年(2010年)の11月には総入場者数が50万人を突破

3年半で50万人だから、これって結構すごいペースなんじゃないかと思うのだ。だって、ただの旧邸宅だよ。伊藤伝右衛門や柳原白蓮って全国的に知らない人も多いだろうし。(現に元鳥取県民の私は、今回ウォーキングで飯塚市を歩いてる途中まで柳原白蓮の名前すら知らなかった

【2014年追記】NHKの朝ドラ「花子とアン」の大人気により、伊藤伝右衛門や柳原白蓮の全国的な知名度も飛躍的に上がっちゃいました。

このエントリーを書いたのは2012年3月ですが、当時すでに人気の高かった旧伊藤邸は、朝ドラ効果により来場者数が前年比5倍にまでふくれ上がってるそうです。えらいこっちゃー!

いかに福岡・筑豊地方における両者の知名度が凄まじいかが、入場者数を見るだけでも分かる。

現在、庭園が国の名勝に指定されており、邸宅は平成18年(2006年)に飯塚市の有形文化財として認定されている。

ものすごい人の波

この日は日曜日。ただでさえ土日の週末は一般の来訪客が多いらしいのだが、この時期は飯塚市内のひな祭りイベント会場の一つでもあり、さらには我々ウォーキング大会参加者で立ち寄る人もいるから、とんでもない人の群れになっていた。

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正面の門。門の右側に、ちょっと明るい木板が立て掛けられてるでしょ。あそこには「旧伊藤伝右衛門邸」と誰かの達筆で書かれている。

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上のは入場チケットと一緒にもらえる資料で、この右側にも立て板と同じ文字が載っているのだけど、これを書いたのは麻生太郎・元首相なんだって。この記事を書き始めるまでそんなこと全然知らなかったわー。知ってたら写真撮ってたのに。

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麻生さんの字は撮ってないけど、こんなのなら撮ったぞ。

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宝くじ看板の隣りにある旧伊藤邸の解説パネル。入場する前に目を通しておいた方が楽しめると思う。私は入場前に写真だけ撮って文は読まず、帰る間際にこの文を全部読み、ようやく意味が判って少し後悔した。

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通常の料金は、高校生以上が300円、小中学生が100円。20名以上だと団体割引で、それぞれ240円と80円になる。ウォーキング参加者は特典として団体扱いだったので、私は240円で入場できた。

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入場してすぐの場所で、ガイドの前に大勢の見物客が群がり、何かの説明を聞いている。

私の職場に、もうかれこれ10回以上は旧伊藤邸に来ているというツワモノの同僚がいる。その人に言わせると、旧伊藤邸は一人ではなく複数のガイドが邸内にいて、どのガイドの話を聞くかによって面白さが天と地ほどの差になるらしい

すごく詳しい情報を知ってる人、丁寧に説明してくれる人、説明が上手で面白い人もいれば、何を喋ってるか分からない人、短い説明だけで済ませて次々と移動していく人、とにかくいろいろだって。

ガイドは皆さんボランティアらしいので、プロじゃないからある程度の差は仕方ないのかも。

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ここが見学入口。さあ、中に入ろう。

多種多様なひな人形の数々

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入口を入ってすぐ正面にある人形。

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入口のすぐ左にある洋風の応接室。

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食堂も洋風で造られていた。

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最初に発見したひな人形。これだけで既に豪華なんだけど、旧伊藤邸のひな人形はまだまだこんなもんじゃない。

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どこの部屋にあった人形なのか分からなくなったので写真だけ。

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邸宅の西の端、案内図には「道具蔵」と書かれている場所は、山本作平衛という人が炭鉱夫を描いた絵画作品が展示されている。この蔵の中は写真撮影が禁止されているので注意。(上の写真は蔵の外にある案内パネル)

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ひな人形の小道具置き場みたいな部屋もあったり。

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浴室。それほど広くなかったけど、それよりも明治中期の頃からシャワーつけてたのだろうか。だとすればモダンやなー。

人形の豪華さに圧倒される

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廊下の脇にも様々な飾り付けが置かれている。

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本座敷に入ると、ドドーンと一室の半分を占めている、ひな人形の大群!

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「京の花見」というテーマで作られてるみたいなのだが、なんかよく意味分からんけど、とにかくすごい。

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奥行もこんなにある。っていうか、どうすれば上手く写真撮れるのか分からんw

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同じような構図ばっかりだけど、何枚か撮っておいた。

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本座敷は窓が開放されていて、縁側に出ることが出来る。すぐ目の前には見事な庭園が広がる。毎日必死で働いて、家に帰って風呂に入って、この庭の景色を見ながらフーって溜息ついたら、きっと疲れも取れるんだろうな。そういうのがなんかイイ。

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本座敷の隣り、中座敷(主人居間)。

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明治天皇雛、と書かれている。真ん中の白い馬に乗る人か、それとも一番上の男性か。

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享保雛って、「享保の改革」の享保? だとすれば江戸時代の人形ってことか。すごいなあ。六歌仙人形は写真ピンボケすいません。

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奥座敷。案内図には「東座敷」と書かれている。人形ばっかりじゃなくて部屋の様子も撮っとかなきゃ、と思って撮影しただけなので他に何の意味もなし。

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この部屋には有職雛が飾られていた。

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昨年6月には、ここで将棋の女流王位戦の対局があったらしい。ここにパネルがあるってことは、この部屋で開催されたってことよね? この部屋でやったことに何か意味があるのかもしれないけど、よく分からない。

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伊藤家の家紋が入った衣桁(いこう)。着物などの衣装を掛ける道具のことなんだって。

白蓮と同じ目線で庭を眺める

2階にも部屋があるというので、上がってみよう。

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階段の幅が狭いので、すれ違うのが大変。

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ここが2階の部屋。伊藤伝右衛門は、再婚した新妻、柳原白蓮のために2階を増築し白蓮の専用部屋にしたのだそうだ。

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皇太子と雅子妃の立像。めっちゃ当然の話だが、白蓮がこの部屋に住んでた頃には、この人形はなかった。ていうか皇太子も雅子様もまだ生まれてない。

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白蓮は2階の部屋から、どんな気持ちで毎日この景色を眺めていたのかな。めっちゃ当然だが、観光客が庭に入ってきて写真をバシャバシャ撮ったりはしていなかった。

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階段がある場所のすぐ正面は資料室になっている。案内図では「骨董蔵」と書かれている部屋。おそらく筑豊や伊藤家の歴史について記録されてるのかな? フィルムが上映されているし、壁にはたくさんのパネルが飾られていた。

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壁に掛けられているパネルは撮影しても大丈夫、と係員に確認したのだが、それ以外の個人所有物などの展示品に関しては撮影が禁止されているので注意を。

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長い廊下を進んで南棟に移る。

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案内図で「子供室」となっている部屋は、飯塚のひな祭りイベント期間中、お子さんにひな人形の衣装を着せて記念撮影するという催しをしているらしい(参加は有料)。

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玄関のすぐ横に位置する書斎。青い敷物のひな人形が印象的だった。

庭園が素晴らしすぎてシャッター乱打

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邸宅は一通り見学を終えたので、今度は外の庭園を見学することにした。庭園入口から入ってする、上の写真を撮ろうとしたら、なんとデジカメが電池切れで再起不能に。まったく動かなくなってしまった。なので上の写真以降はすべて、iPhone4Sのカメラで撮影している。

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白蓮館、という建物があるらしい。

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これが白蓮館の入口。中の展示品はここでも写真撮影が禁止されているので、中の様子が写り込まない角度で撮影している。

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事務所として使用していた時期もあったのね。

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いよいよ庭園に突入。期待が高まる。

なお、芝生を保護する意味もあり、決められた通路以外の芝生などの敷地には立入禁止なので、ついついカメラを覗きながら我を忘れて中に入って行かないように注意。

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邸宅の東端にあたる部分。フィルム上映してた蔵や、2階への階段がある付近だろう。

たくさん写真を撮ったけど、一つ一つ解説できないので全部ズラーっと並べちゃう。芸がなくて申し訳ない。取捨選択できないのよ。

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まさにこれこそが日本庭園!って感じ。さすが国の名勝ですよ。

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庭園も十分に堪能したので、出口へ向かう。

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私が入場した直後、ここにガイドと大勢の客が群れを成していて何があるのか分からなかったのだが、帰り間際は誰もいなかったので覗いてみた。勝手口になるのかな?

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門のすぐ横には売店がある。ここも伝右衛門ではなく白蓮の名が冠してあった。何か買って帰ろうかなと思ったけど、まだ自分がウォーキングの途中だということを思い出し(しかもゴールまでまだかなり遠い地点)、観光モードから戦闘モードに切り替えて門を出た。

エピローグ、というか個人的な考察

今回のウォーキング大会に参加したことで、柳原白蓮という歌人の名前や存在を初めて知った。

詳しい情報もよく分からないまま商店街や旧伊藤邸で少しだけ提示されている伝右衛門と白蓮の情報を読んで、とても不思議な違和感に包まれていた。

簡単に言えば「腑に落ちない」というやつ。

伊藤伝右衛門という人の名前は以前から知っていた。旧伊藤邸が観光名所として大変面白いというのも聞いていた。ただ、伝右衛門の人物像、あるいは人柄がどんな感じで、現代においてはどういう評価なのかというのは、正直言って全く知らなかったに等しい。

最初の妻が明治43年に病死した後、翌年の明治44年、伝右衛門は柳原燁子(あきこ。後の白蓮)と再婚する。白蓮は華族の娘で、結婚当時は27歳。一方の伝右衛門は52歳。年齢差が25歳。

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実はこの時、白蓮も再婚だった。最初の結婚で男の子を一人生んでいるが、明治38年に離婚している。

当時はまだ男尊女卑の傾向が強かった時代。だから今みたいに「デキちゃいました~、結婚しました~、別れました~」みたいに無責任に離婚することなど世間が許さず、一度離婚するだけでも白蓮に対する風当たりは相当厳しかったのではないかと言われている。

この再婚には裏で事情があったらしく、白蓮の兄が貴族院の選挙に出馬する予定になっていたのだけど、そのための資金が足りず、柳原家の方ではお金が欲しかったこと。そして伝右衛門の側としては名門華族との縁を結びたいという思いがあったらしい。なので伝右衛門と白蓮の再婚は「政略結婚」だともささやかれていたんだとか。

しかし伝右衛門は新妻の白蓮のためにいろいろと愛情を持って尽くしたことが記録に残っている。2階を増築して白蓮の専用部屋にしたのもそうだし、玄関の上りは通常の居宅よりも低くするよう改造したのだとか。これは白蓮の和服の裾が汚れないように、と伝右衛門が配慮したからだと言われている。

この豪邸に住むことになり、白蓮が最初に要求したのが水洗トイレだったらしいのだけど、当時は人糞を農業肥料として有効活用していた時代だから、水洗トイレなんて福岡はもちろんのこと、九州のどこを探しても設置している家など一軒もなかったんだって。

それでも伝右衛門は妻の要求に応えるため、大阪から材料を取り寄せ、職人も呼び寄せて水洗トイレを設置させたのだそうだ。この「九州で初めて設置された水洗トイレ」の現物は、いま飯塚市歴史資料館で保管されているとのこと。

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白蓮はこの伊藤邸で10年を過ごしたが、伝右衛門は女グセが相当に悪かったらしく、愛人を何人も同居させ、その愛人の妹にも手を出したり、さらには自分と白蓮と同じ部屋に愛人を寝かせたこともあったらしい。

そんな中で白蓮は複雑な思いを歌に込め、自費出版した最初の歌集が注目を浴びたことで「歌人としての白蓮」の知名度は上がっていく。

やがて白蓮は新聞記者の宮崎龍介と知り合い、恋に堕ち、彼の子供を妊娠してしまう。大正10年に伝右衛門と共に上京した白蓮は突然失踪。2日後の新聞紙上で伝右衛門に対する公開絶縁宣言が掲載され、大騒ぎになったんだって。そりゃ大騒ぎになるよねー。現代だって騒ぐよ。

当時は夫のいる女性が他の男と浮気して深い関係になった時点で姦通罪という罪になった。最悪の場合はそれで実刑を喰らい収監されることもあった。親告罪だったので、伝右衛門は白蓮を訴える可能性もあったが、伝右衛門は姦通罪では訴えない代わりに、子供の父親を確認する訴訟を起こす。

裁判の結果、白蓮の子の父親は伝右衛門ではない、という判決が下り、これを持って白蓮の姦通行為が認定され、華族から除籍され、財産も全部没収された上で、伝右衛門との離婚が成立。白蓮は宮崎と子連れで再々婚した。

ここまでが伝右衛門と白蓮に関するいきさつなのだけど、簡単な情報だけを入手した段階では、白蓮って筑豊地方ではスゴク嫌われてるのかな、と想像してた。

だって、伝右衛門といえば今も筑豊が誇る有名人。スターなわけでしょ。

そのスターを裏切って、結婚中に他の男と浮気までされて、子供まで作られて、新聞で絶縁宣言までされて、赤っ恥までかかされて、普通の目で見たら完全な裏切り者でしょ? 伝右衛門の側に立てばという意味でね。

でも、飯塚の商店街で白蓮のパネル展を見た時も、壁に大きく書かれた白蓮の紹介文を読んでも、白蓮に対する悪意が全く感じられない。むしろ「筑豊で一時代を過ごし、命がけの恋に生きた強い女性」みたいな風に紹介されている。

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伝右衛門と白蓮が、ほとんど同列で愛されているように感じた。どちらも筑豊に生きた著名人であると。

さらに旧伊藤邸の中でさえもそれは顕著で、売店の名前も「白蓮」だし、白蓮館という名前の建物もあるし、蔵のパネルには白蓮のものが幾つもあった。

「伝右衛門のことを裏切った女のことなんて忘れてしまえ! 思い出させるな! 名前を出すんじゃない!」なんて感じは一切ない。むしろ伝右衛門と白蓮が旧伊藤邸で共存しながら称えられている感じ。

白蓮が新聞で絶縁宣言をした時は大騒ぎになったと上で書いた通り、中には過激な連中も当然いて、伝右衛門の親族には「アイツを遠賀川に沈めてしまえ!」と怒り狂う人もいたらしいし、この騒動が各所で問題視された結果、白蓮の兄は議員を辞職しなければならなくなり、出身である華族の柳原家はこの騒動が尾を引いて没落していった。

問題の原因は白蓮の行動にあるけれども、後になって伝右衛門の女グセが異常レベルだということが判明し、白蓮がそれに耐えていたという事実が伝わり始めたり、柳原家がどんどん沈んでいく状況も加わって、日本人特有の判官びいきじゃないけれど、全てを投げ打って愛に走った白蓮のことを同情し、肯定する空気が徐々に出来上がっていったのかもしれない。

上に書いてるのは、あくまで私の想像ですよ。詳しく内情が記されてる文献を読んだわけでもないし。

でも、そう考えないと、どうして白蓮がこの飯塚という地で今も愛され続けているのかの理由が判らないのだ。「あのヤロー、ワシらの伝右衛門サマをコケにしやがってー! 許さねえぜー!」ってな空気は一切感じられない。

柳原白蓮は、宮崎と再々婚してすぐ、その宮崎が結核で倒れてしまい、約3年間もの間は白蓮の歌人としての活動だけで生計を立てていたらしい。

晩年は緑内障を発症して両目とも失明してしまい、夫の宮崎に介護してもらいながら歌を詠み続け、昭和42年(1967年)に亡くなった。享年81歳。

壮絶で波乱に満ちた人生だったのだろうけど、白蓮のことを今も愛している筑豊の人々はたくさんいる。そして、なんだかんだで伝右衛門も愛されている。そして旧伊藤邸はいつも多くの観光客で賑わっている。

それが今回分かったこと。ずーっと長いこと、ウワサでしか聞いたことがなかった旧伊藤邸。ようやく自分の目で見ることが出来たのは大きな収穫だった。たまにはウォーキングに集中するばっかりじゃなく、寄り道もしてみるもんである。

http://www.kankou-iizuka.jp/denemon/index.htm
旧伊藤伝右衛門邸
福岡県飯塚市幸袋300
0948-22-9700
※火曜・水曜が休館日
【2014年8月18日追記】

今年に入って再編集した際、ブログ側の不具合により文章が途中で切れた状態で公開されていました。先ほど過去の文章を復元させることで再度編集しましたが、不具合の際に読まれた方々にはご迷惑をおかけしたことをお詫びいたします。

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