お義父さん、今年も快晴で過ごしやすい一日でしたよ

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いきなり呼び出された


Shoulder Ride by DoodleDeMoon

義父と初めて会ったのは今から18年前。1994年のこと。

平日の正午過ぎ、交際中だった彼女からいきなり電話で「リーガロイヤル小倉に行ってあげて」と。28階だか29階だかのレストランで父が待っていると。

こっちは仕事中。しかもメチャクチャ忙しかった。行けるわけがない。「仕事終わるまで待ってるって言うんよ、男と男の話がしたいって聞かんのよ」と彼女。なんと身勝手な。

社員食堂で一緒に食事をしていた上司が察してくれた。「行っていいよ、人生を左右するかもしれんぞ。でも残業しろよ」

交際5年目。自分に自信がなかった私は、彼女の父親に会うことを拒み続けた。社会人になって数年が経ち、そろそろ結婚も視野に…という話が出た矢先に突然降って湧いた父親の襲来。

これはもしかしたら、父親がというよりも、アイツ(=彼女)が謀ったな? そんな思惑も感じつつ、プロジェクトのメンバーにお詫びを告げて午後から外出した。

ホテルのレストランで私を迎えてくれた義父の笑顔は緊張していた。初めて対面する娘の交際相手。どういう心境で私と対峙したのかは分からない。私もある程度は緊張していたが、それよりも中断した仕事の事が頭から離れなかった。

「男と男の話」と言うからには、おそらく結婚について何かを言われるのだろう。覚悟はしていた。「どうするつもりだ」と問われたら、誠実に答えるつもりで臨んでいた。

しかし約3時間、義父は延々と自らの昔話を私に語り続けた。最初こそ笑顔で相槌を打ってた私も、次第に不愉快な感情を止めることが出来なくなった。

沈黙が怖いから話し続けているという感じではなかった。義父自身を私に知ってもらいたいという狙いだったのかもしれないが、それにしても私の話は全く聞いていなかった。

一度だけ、話題の切れ目を見計らって私が結婚の話題に触れようとしたとき、義父は短く言った。「それはまた今度」。そして次の昔話に移った。

お酒に付き合えなかった

義父の夢は、娘と結婚する義理の息子と一緒に酒を飲むことだったらしい。でも私はお酒が一切飲めない。飲むと体調が崩れてしまう。本当に申し訳ない気持ちでイッパイだった。

実家に行くと必ず義父は「りくくん、今日は一杯飲んでいきなさい」と勧め、義母や嫁が「何回言えば分かるの!彼はお酒が飲めないって言ってるでしょ!しつこいねー!」と怒る。そういうシーンが毎回お約束のように繰り広げられた。

私に対して常に気をつかってくれてるのは分かってた。義父はとても優しい人だった。ある正月、実家で馬刺しが出て、「これ美味しいですね~!」と私が(社交辞令で)言ったら、翌年から正月は大量の馬刺しを取り寄せてくれたほど。

ただ、とにかく私の話は聞かなかった。いつも自分の事しか話さない。私と会話するというよりも、一人語り。私が話題を差し向けても相槌だけ打ってすぐ自分の話題に変わる。完全な一方通行。

次第に私は義父に対して話しかけなくなった。

やがて長男が生まれた。義父にとって初めての孫。その可愛がりようは尋常じゃなかった。「目に入れても痛くない」どころの話ではないほど。ベッタリだった。

週末になるたび、義父は家に来て孫と一緒に遊んだり、孫だけを連れてどこかへ出掛けるようになった。私と嫁と長男、家族3人での時間がどんどん義父に削られていくように感じ、不快感は増すばかりだった。

義父が振り絞って見せてくれた生命力

長男の2年後に長女が生まれ、さらにその4年後に次女が生まれた。

次女が生まれる前年から、義父は入退院を繰り返し、どんどん痩せ細っていった。次女が生まれた頃には、もう余命が数ヶ月だと宣告されていた。

8年前の9月。自宅で吐血した義父は緊急入院。その後しばらくは体調も落ち着き、見舞いに行った際も笑顔で私たちと会話が出来る状態だった。

10月に入り、遂にベッドから起き上がれなくなり、主治医からも状況が芳しくないことは聞かされていた。

10月12日。仕事中の嫁から電話が入った。付き添いで看病していた義母からの連絡で、今夜がヤマだと。

当時プロジェクトリーダーだった私は、初めて義父とリーガロイヤルで会った時と同様に、とても忙しくて休みを取ったり早退をする余裕もなく、それが許される立場でもなかった。

でも今度はプロジェクトのメンバーや協力会社の社員さんたちが気をつかってくれた。ご厚意に甘えて定時退社。

子供たちを保育園まで迎えに行き、家族全員で病院に向かうため自宅を出発した直後、病院にいる義弟から嫁の携帯に連絡が入った。意識がなくなって危篤状態だと。

容体急変を聞き、焦って車を走らせながら、ある程度の覚悟はしていた。

病院に到着し、慌てて病室に向かった。長男が先頭を走り、私は長女を、嫁は赤ん坊の次女を抱いて廊下を走った。

最初に病室へと入った長男の叫び声が聞こえた。「おじいちゃん!」

遅れて病室に入った私は、視界に飛び込んできた光景に驚き、「すごい」とだけ呟いて絶句してしまった。

意識がなくなり危篤と聞いていた義父は、両脇を義母と義弟に支えられ、ベッドから身を起こしていた。ここ最近いつも顔に着けられた呼吸器も外されていた。

そして、もう一週間近く寝たきり状態で表情も固まっていたはずの義父が、起き上がっただけでもスゴイのに、長男に視線を向けてニコッと微笑んでいた。

嫁も、長女も、そして私も、次々と義父に向かって話しかけた。もう返事をする事が出来ない義父は、それでも話しかけた相手にゆっくりと視線を移し、ジッと見つめることで思いを伝えようとしている風だった。

嫁は、抱いていた赤ん坊の次女を義父の顔近くに持っていき、「赤ちゃんも元気にしてるよ~。おじいちゃん早く元気になってと言ってるよ~」と義父に伝えた。

すると義父は、ダランと下に垂らしていた両腕を徐々に前方へと上げ始め、胸の位置まで来たところで動きを止めた。両方の手の平を上に向け、上から落ちてくる何かを抱えようとするかのように。

最初、誰しもがそのポーズの意味を理解できなかった。やがて義母が呟く。「赤ん坊をダッコしたい、って意味じゃない?」

生後2ヶ月の次女を嫁は優しく義父の腕に置いた。義父は細くなった両腕で、しかも自分だけのチカラで、次女を抱きかかえた。視線はうつろだったが、それでも義父は赤ん坊の次女を見つめていた。

「危篤って医者から言われて、それでも起きたことすら奇跡なのに、すごい」と義弟は泣いた。義母も嫁も、私も泣いた。

生後2ヶ月とはいえそれなりの重さになってた赤ん坊の次女を、最初は身動きせず抱いていた義父も、30秒後には両方の腕が重さに耐えられないのか、ブルブルと震え始めた。

察した嫁が義父の腕から次女を譲り受けようとしたのだが、義父は自分の身体の方へと腕を近付け、まだ大丈夫という風に抱擁を続けた、それでも腕の震えは次第に大きくなる。

1分後には次第に腕が下へと落ち始めたので、嫁が義父の腕から次女を譲り受けた。「呼吸が荒くなってきてるので酸素マスクを着けますね」と主治医が言い、義弟と義母に再び両脇を支えられ、義父はゆっくりとベッドに横たわった。

視線は天井の一点に向けられ、しかし何かを見ている様子ではなかった。

長女が「眠い」とグズり始めたので、帰宅することにした。「お義父さん、また来ますね。明日また来ますからね」と、私は義父の耳元で呟いた。

酸素マスクを装着された義父は、私に視線を向けることはなかったが、その口元は少し緩んだように見えた。

もう急がなくてもいいよ

10月13日。夕方、嫁から電話。義父の容体がまた急変したという。再びプロジェクトのメンバー達に詫び、早退して自宅へと車を走らせた。

自宅で待っていた嫁と子供たちを車に乗せ、病院へと出発。途中で近道を走ろうと嫁が言い、知らない道を走ってたら通行止めになっていた。焦りばかりが募り、私も嫁も混乱してどう進めばいいか分からなくなった。

その時、嫁の携帯が鳴った。最初の着信音で私は全てを悟った。車を道路の脇に止め、嫁の電話が終了するのを待った。

電話を切った嫁が私に言った。「パパ、もう急がなくてもいいよ、ゆっくり安全運転で行こうね」

そう言うと、嫁は泣き始めた。長男と長女が心配して「ママどうしたの?」と何度も声をかける。

「おじいちゃんがね、いま亡くなったって。もうね、天国に行っちゃったんだって」

嫁は大声で泣いた。「ママ、大丈夫?」と長男や長女が嫁の背中や頭を撫で続けた。私は掛ける言葉を失い、前方を睨みながら車を走らせた。

病室で待っていた義弟が言った。「最期はぜんぜん苦しまずに逝ったよ。それだけが救いだった」

前日の夜と同じ格好でベッドに横たわっていた義父の目は、もう閉じられていた。

長男を不思議なチカラが動かした

翌日、10月14日は私の誕生日でもあった。

葬祭場には沢山の写真が貼られていた。若い頃の写真や、義母と結婚した直後の写真。まだ小学生だった頃の嫁。そして初孫である長男との写真も多数あった。肩車をしている義父も、肩の上にいる長男も、満面の笑顔だった。

まだ3歳だった長女は、知った顔の親族が集った事にテンションが上がったらしく、終始ハシャいで葬祭場の中を走り回っていた。

読経と焼香が終わり、棺の中に思い出の品や花を添える時が来た。棺のフタが開けられると、義父の胸の上には長男が描いた義父の似顔絵が置かれていた。それまで堪えていたけれど、その絵を見て堪えきれずに私は泣いた。

花を一本、また一本と義父の周囲に置いていく6歳の長男も、次第に泣き始めた。長男が初めて「人間の死」を理解した瞬間だった。

棺が火葬炉に入れられ、扉が閉じられた。葬祭場の人が義母と嫁に向かって説明する。こちらのボタンを押すことで点火になります。

しかし義母も、そして嫁も、ボタンを押すことが出来ない。親族全員も固唾をのんで見守っていた。

すると、私の横に立っていた長男が、トコトコと嫁の方に向かって歩き始めた。私は赤ん坊の次女を抱きかかえていたので長男を制止することが出来なかった。

嫁のところまで歩いた長男は、「このボタン押せばいいの?」と訊いた。「うん、押すんやけどね、でも」と嫁が何かを告げようとしたが、次の瞬間には長男がボタンを押していた。

親族のあちこちでクスッと笑う声が聞こえ、場が和んだ。誰かが大きな声で言った。「大好きだった初孫に送られて、おじいちゃんは幸せやな~!」

一族のみんながそれを聞いてウンウンと頷いた。少しだけ笑顔になった一同に見守られ、義父は天に旅立った。

あとで長男に「なんであそこでボタン押そうと思った?」と訊くと、「覚えてない」「分からん」と長男は答えた。義父の魂が「押してくれ」と長男の魂に伝えたのかもしれない。

思い出すことが供養にもなり、亡き人が生きた証になる

あれから8年。当時6歳だった長男も今は中学2年。身長は既に嫁を越えた。今はバレーボールを頑張っているし、来年は受験だ。顔付きも精悍になり、声も低くなり、どんどん大人へと近付いている。

長男は心の優しい、他人の悲しみを分かってあげることの出来る人間に成長してくれている。義父の愛情を最大限に受けたおかげなのだろう。

義父が亡くなった時は意味が分からずハシャギまくってた長女も、6年前に義母が亡くなった時は大粒の涙を流していた。長女は来年から中学生になる。

義父が最後の生命力を振り絞って抱き上げてくれた赤ん坊の次女は、もう8歳になった。子供たちは健康に育っている。

先週末、仕事の出張で近くまで行ったついでに、義父の墓参りをしてきた。いつもは嫁や子供と一緒に行くのだが、今年の命日は家族全員の都合が合わず、今回は私一人で行った。

義父と義母が眠る墓の前で手を合わせ、いろいろと会話をしてきた。義父と二人で話すのは、最初に会ったリーガロイヤルの時以来なのかな。

その夜、家族全員で義父の話をした。子供たちに、おじいちゃんとの思い出を語らせた。

公園にいつも連れていってもらった。あとは実家近くの本屋でいつも本を買ってもらった、と長男。確かにいつも新しい本を買ってもらってたもんな。今では長男、私よりも遙かに沢山の本を読了している。

肩車をしてもらったことは覚えてるか? と訊くと、「うん覚えてる。おじいちゃんにも、パパにもしてもらった」と長男は答えた。

長女は「実家近くの小さい公園でブランコする時に背中をいつも押してもらった」と言った。3歳だったけど、そんな記憶が残ってたか。ちなみにそのブランコは老朽化のため現在は撤去されている。

「私もね~、病院でダッコされたの、おぼえてるよ!」と、兄や姉への対抗心が最近旺盛な次女も続く。赤ん坊だったから覚えてるわけはないのだけど、亡くなる前夜の奇跡をいつも次女に語ってるので、イメージが記憶にインプットされたのだろう。

亡くなってから2年ほどは、義父の話を自宅で語り合うことが出来なかった。いつも嫁が泣くから。でもここ数年、ようやくみんなが笑顔で義父や義母の思い出を語れるようになってきた。

私の考え方は常日頃から子供たちに伝えている。天国に行った人たちと、心の中でいっぱい会話をしなさい。そうすることでいつまでもみんなが心の中で笑ってくれるし、お前たちを助けてくれるし、思い出すことこそがみんなの生きた証になる。

ウォーキングをしている時、私は空を見上げながら亡き人たちと会話をする。

人間の心模様が変化するように、空の色や雲の形も常に移ろっていく。でも、天国にいる人たちは常に笑顔だ。変わることがない。それは天国に行った人たちの特権なのだろう。

義父とも心の中でいろんな話をする。空と話す時の義父は雄弁ではなく、いつも穏やかに笑顔を向けてくれるだけなので、会話はいつも私主導で進む。

本当は、生きている時に沢山会話をすれば良かった。でもそればかりを考えると懺悔の念に押し潰されそうになるので、前向きな話を義父たちには語りかけるようにしている。

今日も天気が良く、空は青かった。お義父さん、いつも家族を見守ってくれてありがとうございます。

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