初対面は「リーガロイヤルホテル小倉」28階のレストラン
義父と初めて対面したのは、社会人になって3年目くらいの頃だった。
平日の正午過ぎ、社員食堂で昼食を取っている最中、交際中だった彼女から携帯に電話が掛かってきた。
電話を取ると、第一声がいきなり「今からリーガロイヤルホテル小倉に行ける?」と。
前年に完成したばかりの、北九州市で最も背の高い高層ホテル、リーガロイヤルホテル小倉。そのホテルの28階にあるレストランで父が待っている、と。
行ける? と言われても今は平日。俺は仕事中だ。昼休憩に入ったとはいえ、責任のある仕事を任されていて、休憩明けには会議も予定されていた。
今日は特に忙しいから行けない、行けるわけがない、と彼女に伝える。
「仕事終わるまで待ってるって言うんよ、男と男の話がしたいって言って聞かんのよ」と彼女。
なんと身勝手な、と思った。思い込んだら一直線のタイプなのだろう。それにしても、相手側の都合は考えないのか。いくら娘の交際相手だからって失礼過ぎないか。
電話を切ると、一緒に食事をしていた上司が異変に気付いた。「どうした? 急に不機嫌な顔になったな」
事情を説明すると、上司は笑いながら言ってくれた。「いいよ、行ってこい。人生を左右するかもしれんからな。会議は俺も出るし大丈夫。でもその分は残業して埋めろよ」
義父は自分の話だけを延々と続けた
交際5年目。彼女の父とは会ったことも、話したこともなかった。
実家に挨拶に行くのは社会人になってから、と考えていたが、社会人になっても自分に自信がなかった。だから彼女に「お父さんが会いたがってる」と何度か言われても拒否を続けた。
これはもしかしたら、父親がというよりも、アイツ(=彼女)が謀ったな? そんな思惑も感じつつ、上司にお礼とお詫びを告げ、午後から半休を取ってホテルへ向かった。
28階のレストランで初めて対面した彼の笑顔は、明らかに緊張していた。
初めて対面する娘の交際相手。どういう心境で対峙したのかは分からない。こちらも多少は緊張していたが、中断した仕事のことが頭の半分を占めていた。
「男と男の話」と言うからには、おそらく結婚について何かを言われるのだろう。覚悟はしていた。「どうするつもりだ」と問われたら、誠実に答えるつもりで臨んでいた。
しかし約3時間、彼は延々と「自分の昔話」を語り続けた。最初こそ笑顔で相槌を打っていたが、次第に不愉快な感情を止めることが出来なくなった。俺は何のために多忙な時間を割いたのだ。
沈黙が怖いから話し続けているという感じではなかった。自分自身を知ってもらいたいという意図だったのかもしれないが、ただの「お喋り好き」にも見えた。
一方でこちらが何度か自分の話を振っても、彼は簡単な相づちを打つだけで、すぐこちらの話を切って自分の話を始めた。コミュニケーションを取るのではなく、単に話を聞いて欲しいだけのように感じた。途中から話を振るのを止めた。
一度だけ話題の切れ目を見計らい、「娘さんと将来のことについてですが」と、敢えてこちらから結婚の話題について振った。
彼は短く言った。「それはまた今度」
そして次の昔話に移った。
お酒に付き合えなかった
結婚した直後に妻から聞いた。義父の夢は、義理の息子(つまり娘の結婚相手)と一緒に酒を飲むことだったらしい。
しかし、残念ながら自分はお酒が一切飲めない。飲むと体調が崩れてしまう。義父の夢を叶えられないのは本当に申し訳なかったが、そこで無理してお酒に付き合い体調を崩すのは嫌だった。
実家に行くと義父は必ず、「りくくん、今日は一杯飲んでいきなさい」と酒を勧めた。
そして毎回、義母や妻から「何回言えば分かるの! 彼はお酒が飲めないって言ってるでしょ!しつこいよ!」と怒られる。
義父がこちらに大変気をつかってくれている、というのは分かっていた。
ある正月、実家で馬刺しが出て、「これ美味しいですね!」と(半分は社交辞令で)言ったら、翌年から正月は大量の馬刺しを取り寄せてくれた。当時は知らなかったのだが、かなり高級な馬刺しだったらしい。
ただ、結婚前も結婚後も変わらず、こちらの話は聞かなかった。いつも自分の事しか話さない。会話ではなく、一人語り。話題を差し向けても相槌だけ打ってすぐ自分の話題に変わる。完全な一方通行。
やがて長男が生まれた。義父にとって初めての孫。
その可愛がりようは尋常じゃなかった。「目に入れても痛くない」どころの話ではない。ベッタリだった。
週末になるたび、義父は家に来て孫と一緒に遊んだり、孫だけを連れてどこかへ出掛けるようになった。妻と長男と、家族3人での時間がどんどん義父に削られていくように感じた。
義父が見せてくれた奇跡的な生命力
長男誕生の2年後に長女が生まれ、さらにその4年後に次女が生まれた。
次女が生まれる前年から、義父は入退院を繰り返し、どんどん痩せ細っていった。次女が生まれた頃には、もう余命が数ヶ月だと宣告されていた。
9月。自宅で吐血した義父は緊急入院。その後しばらくは体調も落ち着き、見舞いに行った際も笑顔で会話が出来る状態だった。
おそらく、結婚してから義父と最も会話したのがこの頃だった。病室にいた義父はいつも話を聞いてくれた。喜んでもらいたくて、孫についてたくさん話した。義父はいつも穏やかな笑顔でウンウンと頷き、黙って話を聞いてくれた。
10月に入り、義父は遂にベッドから起き上がれなくなった。主治医からも状況が芳しくないと聞いた。
10月中旬。妻から電話が入った。付き添いで看病していた義母からの連絡で、今夜がヤマだと。
当時プロジェクトリーダーだった私は、初めて義父とリーガロイヤルホテル小倉で会った時と同様に、とても忙しくて休みを取ったり早退をする余裕もなく、それが許される立場でもなかった。
でも今度はプロジェクトのメンバーや協力会社の社員さんたちが気をつかってくれた。ご厚意に甘えて定時退社することが出来た。
子供たちを保育園まで迎えに行き、家族全員で病院に向かうため自宅を出発した直後、病院にいる義弟から妻の携帯に連絡が入った。「意識がなくなった、危篤状態だ」と。
容体急変を聞き、焦って車を走らせた。覚悟はしていた。
病院に到着し、慌てて病室に向かった。長男が先頭を走り、私は長女を、妻は赤ん坊の次女を抱いて廊下を走った。
最初に病室へと入った長男の叫び声が聞こえた。「おじいちゃん!」
遅れて病室に入った私は、視界に飛び込んできた光景に驚き、「すごい」とだけ呟いて絶句してしまった。
「意識がなくなり危篤」、そう聞いていた義父は意識が戻っていた。両脇を義母と義弟に支えられ、ベッドから身を起こしていた。ここ最近いつも顔に装着されていた呼吸器も外されていた。
さらに、一週間近く寝たきり状態で、顔の筋肉が硬直したせいで無表情だった義父が、起き上がっただけでもスゴイのに、真っ先に病室へと駆け込んだ大好きな長男に視線を向け、目尻を下げ口元を緩め、ニッコリと微笑んでいたのだ。すごいとしか言いようがなかった。
妻も、長女も、そして私も、次々と義父に向かって話しかけた。もう返事をする事も、頷くことも出来ない義父は、それでも話しかけた相手にゆっくりと視線を移し、ジッと見つめることで思いを伝えようとしていた。
妻は、抱いていた赤ん坊の次女を義父の顔近くに持っていき、「赤ちゃんも元気にしてるよ~。おじいちゃん早く元気になってねと言ってるよ~」と父に伝えた。
義父は、ダランと下に垂らしていた両腕を徐々に前方へと上げ始め、胸の位置まで来たところで動きを止めた。両方の手の平を上に向け、上から落ちてくる何かを抱えようとするかのように。
最初、誰しもがそのポーズの意味を理解できなかった。やがて義母が呟く。「赤ん坊をダッコしたい、って意味じゃない?」
生後2ヶ月の次女を妻はゆっくりと義父の腕に置いた。義父は細くなった両腕で、自分だけの腕力で次女を抱きかかえた。視線はうつろだったが、それでも義父は赤ん坊の次女を見つめていた。
「危篤って医者から言われて、それでも起きたことすら奇跡なのに、すごいな」と義弟は泣きながら呟いた。義母も妻も、私も泣いた。
生後2ヶ月とはいえ、それなりの体重になっていた赤ん坊の次女を、最初は身動きせず抱いていた義父も、30秒後には両腕が重さに耐えられなくなってきたらしく、ブルブルと全身を震わせ始めた。
察した妻が義父の腕から次女を譲り受けようとしたのだが、義父は自分の身体の方へと腕を引き、まだ大丈夫という風に次女の抱擁を続けた、しかし震えは次第に大きくなる。
1分後には次第に腕が下へと落ち始めたので、妻が義父の腕の下に自らの腕を置き、次女を譲り受けた。
「呼吸が荒くなってきてるので酸素マスクを着けますね」と主治医が言い、義弟と義母に再び両脇を支えられ、義父はゆっくりとベッドに横たわった。
視線は天井の一点に向けられ、しかし何かを見ている様子ではなかった。
3歳の長女が「眠い」とグズり始めたので、帰宅することにした。
「お義父さん、また来ますね。明日また来ますからね」と、私は義父の耳元で呟いた。
酸素マスクを装着された義父は、こちらに視線を向けることはなかった。でも、その口元は少し緩んだように見えた。
もう急がなくてもいいよ
翌日の夕方、妻から電話。義父の容体がまた急変したという。
再びプロジェクトのメンバー達に謝罪し、早退して自宅へと車を走らせた。
自宅で待っていた妻と子供たちを車に乗せ、病院へと出発。途中で近道を走ろうと妻が提案し、知らない道を走っていたら通行止めになっていた。
焦りばかりが募り、私も妻も混乱して、どこをどう走ればいいのか分からなくなった。
その時、妻の携帯が鳴った。最初の着信音で全てを悟り、車を道路の脇に停車させ、無言で頭を抱えた。
短い会話が終わり、電話を切った妻が言った。「パパ、もう急がなくてもいいよ、ゆっくり安全運転で行こうね」
そう言うと、妻は嗚咽し、泣き始めた。長男と長女が心配して「ママどうしたの?」と何度も声をかける。
「おじいちゃんがね、いま亡くなったって。もうね、天国に行っちゃったんだって」
妻は大声で泣いた。「ママ、大丈夫?」と長男や長女が何度も言いながら、妻の背中や頭を撫で続けた。私は掛ける言葉を失い、前方を睨みながら車を走らせた。
病室で待っていた義弟が言った。「最期はぜんぜん苦しまずに逝ったよ。それだけが救いだった」
前日の夜と同じ格好でベッドに横たわっていた義父の目は、もう閉じられていた。
大好きだった長男が義父の魂を導いた
葬儀当日。この日は私の誕生日でもあった。
葬祭場には沢山の写真が貼られていた。若い頃の写真や、義母と結婚した直後の写真。まだ小学生だった頃の妻。
初孫である長男との写真も多数あった。肩車をしている義父も、肩の上にいる長男も、満面の笑顔だった。
まだ3歳だった長女は、知った顔の親族が集った事にテンションが上がったらしく、終始嬉しそうに葬祭場の中を駆け回っていた。
読経と焼香が終わり、棺の中に思い出の品や花を添える時が来た。棺のフタが開けられると、義父の胸の上には長男が保育園で描いた「おじいちゃんの似顔絵」が置かれていた。それまで堪えていたけれど、その絵を見て堪えきれずに私は号泣した。
花を一本、また一本と義父の周囲に置いていく6歳の長男も泣き始めた。長男が初めて「人間の死」を理解した瞬間だった。
棺が火葬炉に入れられ、扉が閉じられた。葬祭場の人が義母と妻に向かって説明する。「こちらのボタンを押すことで点火になります」
しかし義母も、そして妻も、ボタンを押すことが出来ない。親族全員も固唾をのんで見守っていた。
すると、私の横に立っていた長男がトコトコと妻の方に向かって歩き始めた。私は赤ん坊の次女を抱きかかえていたので、長男を制止することが出来なかった。
妻のところまで歩いた長男は、「このボタン押せばいいの?」と訊いた。
「うん、押すんやけどね、でも」と妻が何かを告げようとしたが、次の瞬間には長男がボタンを押していた。
親族のあちこちで微かに笑う声が聞こえ、場が和んだ。親族の誰かが大きな声で言った。「大好きだった初孫に送られて、おじいちゃんは幸せやな~!」
周囲のみんながそれを聞いてウンウンと頷いた。少しだけ笑顔になった一同に見守られ、義父は天に旅立った。
あとで長男に「なんであそこでボタン押そうと思った?」と訊いた。
「覚えてない」「分からん」と長男は答えた。
義父の魂が「押してくれ」と長男の魂に伝えたのかもしれない。
思い出すことが供養にもなり、亡き人が生きた証になる
当時6歳だった長男も今は中学2年。身長は既に母親を越えた。バレーボール部で部活動を頑張っている。来年は受験だ。顔付きも精悍になり、声も低くなり、どんどん大人へと近付いている。
長男は心の優しい、他人の悲しみを分かってあげることの出来る人間に成長してくれている。義父の愛情を最大限に受けたおかげなのだろう。
義父が亡くなった時は人の死の意味が分からずハシャギまくってた長女も、その2年後に義母が亡くなった時は大粒の涙を流していた。長女は来年から中学生になる。
義父が最後の生命力を振り絞って抱き上げてくれた赤ん坊の次女は、もう8歳になった。子供たちはみんな健康に育っている。
先週末、仕事の出張で近くまで行ったついでに、義父の墓参りをしてきた。いつもは妻や子供と一緒に行くのだが、今年の命日は家族全員の都合が合わず、今回は一人で行ってきた。
義父と義母が眠る墓の前で手を合わせ、いろいろと会話をしてきた。リーガロイヤルホテル小倉で義父と初めて会ってから、もう20年近くの年月が流れている。
その夜、家族全員で義父の話をした。子供たちに、おじいちゃんとの思い出を語らせた。
公園にいつも連れていってもらった。あとは実家近くの本屋でいつも本を買ってもらった、と長男。確かにいつも新しい本を買ってもらってたもんな。おかげで長男はすっかり読書好きになった。毎月大量の本を買っている。漫画も増えてきてはいるが。
肩車をしてもらったことは覚えてるか? と訊くと、「うん覚えてる。おじいちゃんにも、お父さんにもしてもらった」と長男は答えた。
長女は「実家近くの小さい公園でブランコする時に背中をいつも押してもらった」と言った。あの頃は3歳だったけど、そんな記憶が残っていたんだなと嬉しくなった。ちなみにそのブランコは老朽化のため現在は撤去されている。
「私もね~、病院でダッコされたの、おぼえてるよ!」と、兄や姉への対抗心が最近旺盛な次女が続いて語る。赤ん坊だったから覚えているわけはないのだけど、亡くなる前夜の奇跡をいつも次女に語ってるので、イメージが記憶にインプットされたのだろう。
亡くなってから2年ほどは、義父の話を自宅で語り合うことが出来なかった。いつも妻が泣いてしまうから。でもここ数年、ようやくみんなが笑顔で義父や義母の思い出を語れるようになってきた。
私の考え方は常日頃から子供たちに伝えている。天国に行った人たちと、心の中でいっぱい会話をしなさい。そうすることでいつまでもみんなが心の中で笑ってくれるし、お前たちを助けてくれるし、思い出すことこそがみんなの生きた証になる。
ウォーキングをしている時、空を見上げながら亡き人たちと会話をする。
人間の心模様が変化するように、空の色や雲の形も常に移ろっていく。でも、天国にいる人たちは常に笑顔だ。変わることがない。それは天国に行った人たちの特権なのだろう。
義父とも心の中でいろんな話をする。空の向こうにいる義父は雄弁ではなく、いつも穏やかに笑顔を向けてくれるだけなので、会話はいつもこちら主導で進む。
本当は、生きている時に沢山会話をすれば良かった。でもそればかりを考えると懺悔の念に押し潰されそうになるので、前向きな話を義父たちには語りかけるようにしている。
今日も天気が良く、空は青かった。お義父さん、いつも家族を見守ってくれてありがとうございます。