かつて江戸時代に整備された街道「門司往還」。参勤交代で九州の諸大名が利用し、門司には大里宿という宿場町が栄えていました。
この記事では散策ガイドのまとめや、門司往還についての詳しい解説を紹介していきます。
門司往還や大里宿の歴史解説は『長崎街道/大里・小倉と筑前六宿』という書籍を参考にさせていただきました。
門司往還(参勤交代往還路)の散策ガイドまとめ
豊前国の小倉(現在の北九州市小倉北区)と大里(現在の北九州市門司区)との間に整備された門司往還。
別称を「参勤交代往還路」ともいいます。
門司往還の旧街道を実際に散策し、史跡の場所や写真、見どころなどを記事にまとめました。
情報量が多いため、4つの記事に分割して公開しています。
- 常盤橋〜門司口門跡
- 門司口門跡〜手向山
- 手向山〜大里宿の街道松
- 大里宿〜湊口跡
常盤橋〜門司口門跡
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門司往還(参勤交代往還路)散策ガイド:常盤橋〜門司口門跡
江戸時代に整備された旧街道、門司往還(参勤交代往還路)。大半の道は現在も散策可能です。今回は北九州市小倉北区にある常盤橋から門司口門跡まで約1.2kmの散策コースをはじめ、史跡の場所や観光名所を地図や写真付きで解説しています。
小倉側の起点となる常盤橋から、小倉城城郭の端となる門司口門跡まで、約1.2kmの散策ガイドです。
途中、京町銀天街やセントシティなどを歩きます。
門司口門跡〜手向山
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門司往還(参勤交代往還路)散策ガイド:門司口門跡〜手向山
江戸時代に整備された旧街道、門司往還(参勤交代往還路)。今回は北九州市小倉北区、門司口門跡から手向山まで約3.3kmの散策コースをはじめ、史跡の場所や観光名所、宮本武蔵や宮本伊織と縁のある手向山の歴史などを地図や写真付きで解説しています。
門司口門跡を出発し、小倉北区の東端となる手向山まで、約3.3kmの散策ガイドです。
かつて白浜が美しかったと記録にもある海岸線の跡を歩き、門司区へと向かうコースです。
後半、宮本武蔵や宮本伊織に縁のある手向山公園に少し寄り道をしています。
手向山〜大里宿の街道松
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門司往還(参勤交代往還路)散策ガイド:手向山〜大里宿の街道松
江戸時代に整備された旧街道、門司往還(参勤交代往還路)。今回は北九州市門司区に残っている門司往還の旧街道紹介を中心に、史跡の場所や観光名所、門司赤煉瓦プレイスの歴史などを地図や写真付きで解説しています。
門司区に入り、大里宿の入口に立つ街道松まで、約2.7kmの散策ガイドです。
旧街道の道が比較的残っているエリアです。またJR門司駅周辺の再開発の様子や、観光名所「門司赤煉瓦プレイス」についても紹介しています。
大里宿〜湊口跡
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門司往還(参勤交代往還路)散策ガイド:大里宿〜湊口跡
江戸時代に整備された旧街道、門司往還(参勤交代往還路)。門司往還の街道で最大の宿場町だった大里宿の跡を散策するコース紹介です。現在の北九州市門司区大里エリアに残る各地の史跡や観光名所を地図や写真付きで紹介しています。
門司往還で最大の宿場町「大里宿」の全体を散策し、本州へと渡る船の湊口跡まで、約1.1kmの散策ガイドです。
大里宿にあったいろいろな建物を解説しているほか、史跡の位置や歴史を写真や地図で紹介しています。
門司往還は長崎街道に含むか含まないか、当サイトの定義
門司往還の起点は、現在の北九州市小倉北区にある常盤橋です。
この常盤橋を起点とする街道は他にも複数あり、「長崎街道」もそのひとつ。私自身何度も長崎街道を散策しましたし、当サイトでも多くの記事を書いています。
常盤橋を起点として西の長崎までを繋ぐ長崎街道ですが、書籍やサイト記事で「門司往還は長崎街道に含まれる」という考察があります。
資料を読む限り確かに門司往還は、大きく捉えれば長崎街道の一部と言えるかもしれないな、とも思います。
ですが当サイトでは「門司往還と長崎街道は(ひとまず)別の街道である」という捉え方をして、分けて扱います。
その理由は、
- どちらの街道も「常盤橋を起点」として考える
あくまで常盤橋が起点で、常盤橋から「東へ行けば門司往還」「西へ行けば長崎街道」という風に分けて定義をします。
そのほうが散策するときにスッキリするからです。
「どこからが門司往還?」
「常盤橋がスタートやゴールではないの? 中継点?」
「長崎街道を歩くって、小倉じゃなくて門司までなの?」
歩いている最中や歩く計画を立てるとき、こういった疑問が生じるかもしれません。
そんなふうにややこしく考えることもなく「常盤橋がスタート(ゴール)です!」としておけば区切りが良いしスッキリします。
学説的な意味で門司往還が長崎街道に含まれるのか・含まれないのかは正直どうでもよくて、散策好きな立場としては2つの街道を分けたいということです。
というわけで、当サイトは長崎街道と門司往還を別の街道として扱います。あくまで当サイトでの定義ですので、異なる見解をお持ちの方を否定する意図はありません。
なぜ門司往還や大里宿は江戸時代に整備されたのか
もともと小倉と門司を繋ぐ道は(江戸時代ほど整備はされていないにせよ)古くから存在していたはずです。
道沿いにあった砂浜の美しさを詠んだ歌が奈良時代の万葉集に載っていることからも想像できます。
江戸時代になり、なぜ門司往還が整備され大里宿が栄えたのか。これには歴史的な背景があります。
1615年(元和元年)、江戸幕府2代目将軍・徳川秀忠の命により「武家諸法度」が発令されました。
その後、1635年(寛永12年)には3代目将軍・徳川家光の命により、武家諸法度に「参勤交代を義務化」という項目が追加されています。
参勤交代の義務化により、江戸から遠く離れた九州の諸大名もキチンと江戸まで行かなければ幕府から厳しい処分を受けることになったのです。
門司往還は別名を「参勤交代往還路」と言います。名前のとおり、参勤交代に使用する街道として整備されたのです。
門司往還を管轄する小倉藩のお家事情
門司往還について調べていくと、街道を整備し管轄していた「豊前国・小倉藩」のお家事情がいろいろと関係しているということが分かってきます。
細川家から小笠原家へ
小倉城に藩庁が移され小倉藩が始まったのは1602年(慶長7年)。最初に治めたのは細川家で、初代藩主は細川忠興でした。
細川家による小倉藩の統治は30年ほど続きましたが、1632年(寛永9年)に細川家は肥後国・熊本藩へと移りました。二代目藩主・細川忠利のときです。
理由は、それまで熊本藩を治めていた藩主・加藤忠広(加藤清正の息子)が問題を起こし、改易されたから。
加藤家の改易は現代風に言えば「左遷」ですが、細川家の移封については小倉藩よりも熊本藩のほうが石高が多いことから、ある意味で「栄転・昇格」なのかもしれません。
「改易」とは武士や大名に対する刑罰のことで、大名の場合は所領を没収されたり、石高の少ない別の藩に移動(=減封)させられるといったものがありました。
細川家が熊本藩に移ったあと、小倉藩を治めたのは小笠原家でした。
小笠原家の小倉藩・初代藩主は小笠原忠真。前任者である細川忠利の義兄でもありました。(細川忠利の奥さんは小笠原忠真の実妹)
それまで播磨国(別称は「播州」、現在の兵庫県南西部)・明石藩主だった小笠原忠真が小倉藩に移った際、家臣だった宮本伊織(宮本武蔵の養子)も同じく小倉に移っています。
小笠原家が小倉藩を治めた理由
小笠原忠真が小倉藩主となった理由は、前任者だった細川忠利と義兄弟だった関係もあるかもしれませんが、それよりも大きな理由は「小笠原家が譜代大名だから」だと考えられています。
江戸時代の大名は、大きく3つの区分がありました。
- 親藩大名:徳川家の親族
- 譜代大名:関ヶ原の戦い以前から徳川家に従っていた
- 外様大名:関ヶ原の戦い以降から徳川家に従った
細川家は関ヶ原で東軍(=徳川軍)として戦っていますが、区分としては「外様」です。外様ではあるものの、徳川家康をはじめ徳川家には信頼されていました。
一方、徳川家に昔から仕え信頼されている「譜代」の小笠原家が小倉藩に配置されたのは、九州の玄関口である小倉から九州各地や近隣にある外様大名たちに対してニラミを利かせるためだと言われています。
- 毛利家:長州藩(現在の山口県)
- 島津家:薩摩藩(現在の鹿児島県)
- 鍋島家:佐賀藩(別称は「肥前藩」、現在の佐賀県)
- 黒田家:福岡藩(現在の福岡県西部)
- 有馬家:久留米藩(現在の福岡県久留米市)
有力な外様大名が九州・山口にこれだけ揃っていたのですから、幕府も警戒したのでしょうね。
実際に幕末での討幕運動や明治維新では、長州・薩摩・肥前に土佐(現在の高知県)を加えた「薩長土肥」が中心となりました。
参勤交代における小倉と大里の住み分け
当初は小倉と黒崎の湊が利用されていた
参考資料によれば、参勤交代が開始された初期の頃、九州の諸大名が海を渡るために利用した船の港は2箇所ありました。
- 紫川口(常盤橋のすぐ近く)
- 黒崎湊(現在の北九州市八幡西区黒崎)
紫川口とは、常盤橋が架かっている紫川の河口です。現在は埋め立てられていますが、江戸時代はまだ海で、紫川の河口から船に乗ることができたのです。
一方、黒崎湊は小倉よりも西へ約12kmほど離れた場所にあります。長崎街道の宿場町のひとつ「黒崎宿」があり、宿場町の北側に港がありました。
参勤交代で優遇された小笠原家
小倉城や常盤橋のすぐ近く、紫川口から船に乗れた大名は、
- 小笠原家
- 日田天領の代官
この2つだけでした。
小笠原家は譜代大名で、日田天領とは「幕府の直轄地」。幕府と深い繋がりがある2つだけが紫川口を利用できたということです。
小笠原家は海を渡った先でも優遇されていたようです。小倉城のすぐ近くにある紫川口から船に乗り、兵庫湊(現在の神戸市)や難波湊(現在の大阪市)まで船での移動が許されていました。
これにより参勤交代にかかる日数が他の大名と比べて短く、費用も節約できていました。譜代大名っていいなあ。
外様大名たちは大里宿を利用した
一方、島津家・黒田家・有馬家・鍋島家といった九州の外様大名たちは、上で書いたとおり紫川口からの乗船は許可されておらず、参勤交代の初期は黒崎湊から船に乗っていました。
さらに、海を渡って到着するのは赤間ヶ関(現在の山口県下関市)で、そこから先は陸上を江戸まで徒歩移動でした。外様大名たちは小笠原家のように神戸や大阪まで船で移動することは許されなかったのです。
やがて、小倉藩の藩主・小笠原忠真が門司往還を整備し、宿場町として大里宿を設けます。
これにより、島津・有馬・鍋島といった外様大名たち、さらには日田天領の代官も、黒崎から大里へと利用先を変更し、大里から赤間ヶ関まで船で移動するようになったそうです。
なぜ外様大名たちは紫川口を利用できなかったのか
参勤交代をする際、大名およびその一行はかなりの人数となります。
これらの大名たちが同じ時期に宿場町へ集中してしまうと、宿が取り合いになってしまいます。
宿場町の混雑を避けるため、外様大名の船乗り場は黒崎と大里で分散させる意図があったようです。
また、紫川口は小倉城のすぐ近くです。譜代大名の拠点のすぐ近くに有力な外様大名たちの一行が集結してしまったら、治安維持が大変だと考えられたようです。かなりの人数だし、武器も持ってますからね。
最悪、幕府に対して反乱でも起こされようものなら大変なことになります。そういう思惑があり、小倉城下の紫川口を使用させないため門司往還や大里宿の整備を進めたと考えられています。
大里という地名の由来と歴史
大里という地名は、古くは「柳」でした。
さらには海岸一帯の地名が「柳浦」や「柳ヶ浦」だったと平安時代の文献に載っているそうです。
1183年(寿永2年)、木曽義仲の都入りにより平家と共に京を逃れた安徳天皇の一行は、柳ヶ浦から上陸し、一時的に御所(内裏)と定めたという歴史がありました。
それ以降、数百年にわたって柳ヶ浦は「内裏」という地名となっていました。
その「内裏」が「大里」という地名に変わったのは、小笠原家の小倉藩・二代目藩主、小笠原忠雄の頃。1720年(享保5年)頃だったと参考資料に書かれています。
現在、日本全国に「大里」という地名は複数あるのですが、大半は読みが「おおさと」か「おおざと」であり、「だいり」と読ませるのは北九州市門司区の大里、ただ1つだそうです。