「門司往還」という、江戸時代に存在した街道があります。
この記事では、門司口門跡を出発して手向山まで、約3.3km(寄り道を含めると約4.2km)の散策コースを紹介します。
今回の散策コースは上の地図のとおり。地図に載せている赤色の丸番号は、この記事の各見出しに対応しています。
門司往還や大里宿の歴史的背景・参勤交代での住み分けなどについては別記事でまとめています。
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門司往還と大里宿:江戸時代に小倉と門司を繋いだ北九州市の旧街道
江戸時代に整備され、小倉と門司を繋いでいた旧街道の「門司往還」。各地に点在する史跡の位置や風景写真などを紹介する散策ガイドをはじめ、長崎街道との関係性、宿場町である大里宿の由来や歴史、参勤交代で門司往還を利用した九州諸大名の解説などをまとめました。
門司口門跡
門司口門跡を出発し、門司・大里宿を目指して東へ進みます。
上の写真、右側に見えているのは山陽新幹線の高架。門司往還の旧街道は直進方向です。
貴布禰神社
門司口門跡を出発し、長浜町というエリアに入ります。
門司口門跡から100メートルほど直進すると、長浜児童館という施設のとなりに神社があります。
貴布禰神社という神社です。
鳥居の右側には案内板が設置されており、門司往還の往来が盛んだった頃はこのあたりが海岸だったことや、海岸線には白い砂浜と美しい松並木があったことなどが解説されています。
海岸線は「企救の長浜」や「企救の高浜」と呼ばれており、現在の地名にも反映されています。
鳥居の左側には万葉歌碑が立っています。「企救の長浜」や「企救の高浜」を詠んだ歌が万葉集に2つ載っており、そのうちの1つがこの歌碑に刻まれています。
豊国の企救の長浜ゆきくらし
日の暮れ行けば妹をしぞ思ふ(歌意)豊前の国、企救の長浜を歩き続け、日が暮れてしまえば、そぞろに愛しい人のことが思われる
砂津長浜トンネル
貴布禰神社から東へ100メートルほど進むと、上の写真にあるとおり、行き止まりになります。
本来、門司往還の街道はここを直進するコースだったのですが、2022年5月に「砂津長浜トンネル」が開通したことにより、旧街道は分断されてしまいました。
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開通した砂津長浜トンネルの周辺散策、富野エリアを9年ぶりに歩く
2022年6月、北九州市小倉北区を歩いてきました。(JR小倉駅→ミクニワールドスタジアム北九州→砂津長浜トンネル→新関門トンネル入口→更新うどん→JR小倉駅)
この地点からだと車両は右方向にしか行けませんが、歩行者は左方向にも進めます。
迂回のためいったん左に進んで国道199号線の歩道を右折し、トンネル入口前の交差点を横断して反対側へと移動します。
岩松助左衛門翁生誕の家跡
砂津長浜トンネルを迂回し、再び旧街道に戻ってすぐの場所に「岩松助左衛門翁生誕の家跡」という石碑が立っています。
石碑が立っているのは、なんと民家の敷地内。玄関のすぐ横に石碑があります。
比較的新しいお宅なのもあり、普通にビックリしてしまいました。敷地内に入ったり長居してしまうのはダメだと判断し、石碑の写真だけ撮ってすぐ移動。
岩松助左衛門の子孫など、ゆかりのある方のお宅なのかどうかは分かりません。
岩松助左衛門は、江戸時代末期に小倉沿岸に灯台を建設すべく奔走した人で、JR小倉駅に近い「西顕寺」にお墓があります。
詳しくは門司往還・常盤橋〜門司口門跡の散策ガイド記事に書いています。
閻魔堂
「岩松助左衛門翁生誕の家跡」の石碑のすぐ近く、東へ20メートルほど進んだ左側に古い建物があります。
閻魔堂。別称で「引接庵」ともいいます。
案内板によれば、閻魔堂はもともと長浜西(現在の小倉北区砂津3丁目)にあったそうです。敷地がJR鹿児島本線の線路となったことから、1953年(昭和28年)にこの地へ移ったとのこと。
毎年1月16日と8月16日には閻魔堂でお祭りが開催され、この日限定で江戸末期の絵師・村田応成の作といわれる「地獄・極楽の絵図」が開帳されるそうです。絵図は現地の案内板に載っています。
その絵を見た子供たちに対し、一緒に来た親や祖父母が「言うことを聞かぬと地獄に落ちて、エンマ様から舌を抜かれるぞ」と脅すのだとか。怖い怖い。
庚申塔
旧街道は閻魔堂からさらに東へ直進するのですが、ここで少し寄り道。
閻魔堂のすぐ東にある三叉路を、東(左側)ではなく南(右側)に曲がります。
南の道をグルリと反時計回りに進んでいくと、上の写真の場所に着きます。
写真中、赤い矢印のところに「庚申塔」があります。
庚申塔とは、中国から伝来した道教に由来する「庚申信仰」に基づいて建てられた石塔のことだそうです。
庚申塔の建立は江戸時代に盛んとなったものの、明治時代になると政府が庚申信仰を迷信と位置付けたことにより、多くが撤去されてしまったのだとか。
地蔵堂
庚申塔の場所から東へ20メートルほど進むと墓地があり、道路に面したところに地蔵堂があります。
地蔵堂の柱には「北山越地蔵」と書かれた紙が貼られており、数体の地蔵が祀られています。
高浜の松並木
地蔵堂の裏手にある道路を左折し、北へと進みます。
道路の右側には赤い煉瓦造りの立派な建物。以前は東京製綱の小倉工場倉庫として利用されていた建物なのだそうです。
東京製綱小倉工場は2001年に閉鎖され、跡地は2010年に吉川工業へと譲渡されています。
旧東京製綱小倉工場倉庫のフェンスに沿ってしばらく進むと、国道199号線に出ます。
その国道199号線の手前に、国道と並走するもうひとつの道路があります。これが門司往還の旧街道です。
先ほどの「閻魔堂」から右折して寄り道をせず、そのまま直進していたらこの道に繋がっていたことになります。
このあたりで住所表記は「長浜町」から「高浜1丁目」へと変わります。
万葉集にも登場した「企救の長浜」や「企救の高浜」にもあるとおり、このあたりはかつて海岸でした。
その海岸だった時代を思わせるように、旧街道と国道の間には松並木が続いており、風情のある景色となっています。
ただ、この松並木は江戸時代からある古いものではなく、最近になって植えられたものだそうです。
旧街道だった道路は車道であり、交通量は少ないものの車が通ります。松並木を眺めながら遊歩道の気分で歩いていると車にひかれますので、散策の際はご注意ください。
小倉北区高浜1丁目
松並木が終わり、旧街道をしばらく直進すると、やがて交差点に着きます。
そのまま交差点を直進して少し進むと、電柱に「この先 通り抜け出来ません」という案内板が貼り付けられています。
旧街道はこのまま直進なのですが、直進すると私有地に入ってしまうため、一般の方々は行き止まりとなってしまいます。
迂回のため交差点を左折し、結婚式場(アルカディア小倉)の横を通過して国道199号線に出ましょう。
「末広町」交差点
国道199号線の「末広町」交差点で右折します。
しばらく国道199号線の歩道を東へ向かって進みます。交通量の多い道路ですが、左側には日本海が広がっており、景色は良いです。
国道199号線をもう少し東へ進むと、武蔵vs小次郎の決闘で有名な「巌流島」があります。
高浜橋
しばらく国道199号線を進むと、やがて「延命川」という川に架かる「新赤坂橋」に着きます。
新赤坂橋から右を見ると、もう1つ橋が見えます。これが「高浜橋」です。
高浜橋は、昔の絵図には土の橋として描かれているそうです。現在はコンクリートで舗装されています。
この高浜橋を起点として、いくつか寄り道をします。
まずは高浜橋から西へ進みます。今まで歩いてきた方向とは逆向きに、Uターンするように進みましょう。
企救の高浜
住宅街の中にある細い車道を西へ向かいます。この道路もかつての門司往還・旧街道で、「企救の高浜」と呼ばれていた海岸線です。
先ほど高浜1丁目の四つ角で「この先通り抜け出来ません」という表記があった地点、あそこをそのまま直進できていれば、この道路に合流していたことになります。
高浜橋から100メートルほど西へ進んだ先に「企救の高浜」についての案内板が設置されています。
貴布禰神社の案内板と同じく、こちらの案内板にも「企救の長浜」や「企救の高浜」について詠まれた万葉集の歌が載っています。
豊国の企救の高浜たかだかに
君待つ夜らは小夜ふけにけり(歌意)企救の高浜の高の名のように高々と爪先立つ思いで君を待つ夜はもうふけてしまった
案内板から先は私有地のため行き止まりとなっています。Uターンして高浜橋まで戻りましょう。
猿田彦大神(文化二年銘)
再び高浜橋に戻ったら、今度は東へ向かって寄り道をします。上の写真、赤い矢印のとおりに進みましょう。
東へ100メートルほど進むと、正面に家屋が建っており、道が二手に分かれます。
右側の道を進みましょう。左側に行っても特に何もありません。
右側の道を進んですぐの場所に「猿田彦大神」の石碑があります。石碑には「文化2年(1805年)」と刻まれています。
猿田彦神は、天孫降臨の際に道案内をしたという言い伝えにより「道の神」や「旅人の神」とされるようになり、全国各地に神社や石碑が祀られているのだそうです。
門司往還の旧街道は、本来であれば猿田彦大神の場所から直進方向(東側)へと進んでいくのですが、現在はJRの線路が敷かれており立入禁止となっていて進めません。
迂回する必要があるので、再び高浜橋まで戻りましょう。
小倉北区赤坂5丁目
猿田彦大神からUターンして高浜橋まで戻ったら、左折して南側に進みます。
南側に進んですぐのところにJRの高架があります。ちょうど貨物列車がゆっくりと通過していくところでした。
JRの高架下をくぐり、しばらく進むと国道3号線に出ます。
「赤坂1丁目東」交差点を左折し、しばらく国道3号線の歩道を東へ進みましょう。
上の写真、JR線路のある場所が本来は門司往還の街道でした。
「手向山公園入口」交差点
国道3号線をしばらく進むと「手向山公園入口」交差点に着きます。
交差点の角には宮本武蔵の肖像画を描いた案内板が設置されています。
手向山の上には「手向山公園」が整備され、宮本武蔵や佐々木小次郎の石碑が設置されていることでも有名です。
手向山公園の近くには武蔵と小次郎が決闘をしたことで有名な巌流島があったりと、このエリアは歴史好きな人には魅力的な散策コースだといえます。
ということで、少しだけ寄り道をするため交差点を右折して南側に進みます。
宮本伊織の墓
南側にしばらく進むと左側に、手向山公園へと通じる階段があります。
山の上にある手向山公園は車でも行けますが、道幅がとても狭いため危なく、個人的には車での訪問をあまりオススメしません。徒歩で山頂の公園まで行くほうが安全で良いと思います。
先ほどの階段からさらに南へ数十メートルほど進むと別の階段があり、その脇に墓地があります。
ここには宮本武蔵の養子、宮本伊織の墓があります。
墓地入口は施錠されており、中に入ることはできませんでした。常に施錠されているのか、今回たまたまだったのかは分かりません。
墓地の中に入れなかったため、数ある墓のうちどれが伊織の墓なのかを確認することもできず、墓地前の道路の側から適当に撮影してみました。
あとで資料を確認したところ、どうやら奥の列のまん中あたり、上の写真だと左から7番目にあるのが伊織の墓だそうです。他の墓より少し背の高い墓です。
伊織の墓をはじめとする宮本家代々の墓は、もともとは山頂の公園内にあったのですが、明治20年(1887年)に砲台が建造されたことにより、墓地は現在の場所へと移動したのだそうです。
15歳のときに宮本武蔵の養子となった宮本伊織は、播州・明石藩主だった小笠原忠真に仕えました。
寛永9年(1632年)、忠真が豊前国・小倉藩主に国替えとなった際、伊織も従って小倉に移っています。
ちなみに宮本武蔵も小倉に約7年間滞在しており、武蔵が生涯でもっとも長く滞在したのは小倉だと言われています。
忠真は伊織に手向山を含む所領を与え、伊織の義父・武蔵が亡くなった9年後の承応3年(1654年)、伊織は手向山の山頂に「武蔵顕彰碑」という大きな石碑を建立しました。
武蔵顕彰碑には、武蔵の遺言や佐々木小次郎との決闘の詳細などを記した「小倉碑文」と呼ばれる文章がビッシリと刻まれ、現在も手向山公園の中にあります。
手向山公園は桜の名所としても有名です。北九州市のお花見スポットを紹介する別記事で手向山公園を紹介しており、そちらの記事に武蔵や小次郎の石碑も写真を掲載しています。
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「手向山公園東」交差点
宮本伊織の墓まで寄り道してからUターンし、宮本武蔵の肖像画がある「手向山公園入口」交差点まで戻ったら右折をして、国道3号線を東へと進みます。
しばらく進むと「手向山トンネル」が現れます。
トンネル内は両側に歩道があります。距離の短いトンネルなのですぐ外に出ます。
手向山トンネルを出るとすぐ「手向山公園東」交差点。ここが小倉北区と門司区の境となっています。
門司往還の散策は、いよいよ門司区に突入します。
参考資料
門司往還のコースや各所の歴史解説などは、『長崎街道/大里・小倉と筑前六宿』という書籍を参考にさせていただきました。
また2024年2月に出版された「地球の歩き方・北九州市」の地域情報(小倉北区、門司区)も参考にさせていただきました。