「門司往還」という、江戸時代に存在した街道があります。
この記事では、門司区の赤煉瓦プレイスにある街道松から大里宿湊口跡まで、約1.1km(寄り道を含むと約1.7km)の散策コースを紹介します。
今回の散策コースは上の地図のとおり。地図に載せている赤色の丸番号は、この記事の各見出しに対応しています。
門司往還や大里宿の歴史的背景・参勤交代での住み分けなどについては別記事でまとめています。
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門司往還と大里宿:江戸時代に小倉と門司を繋いだ北九州市の旧街道
江戸時代に整備され、小倉と門司を繋いでいた旧街道の「門司往還」。各地に点在する史跡の位置や風景写真などを紹介する散策ガイドをはじめ、長崎街道との関係性、宿場町である大里宿の由来や歴史、参勤交代で門司往還を利用した九州諸大名の解説などをまとめました。
住吉神社
門司往還の中で最大の宿場町だった「大里宿」。
この大里宿を散策する前にちょっと寄り道します。
門司赤煉瓦プレイスの駐車場から西へ進み、海へ向かいましょう。
国道199号線を横断して海側に進むと「大里海岸緑地」に着きます。
海岸に沿ってキレイに整備された公園エリアで、ジョギング・ウォーキングしている人が多数いました。
海の向こう側は山口県下関市。写真には海峡ゆめタワー(写真左上)や関門橋(写真中央少し上)が写っています。
大里海岸緑地の北の端、漁協の建物の隣りに「住吉神社」があります。
江戸時代の中期、異国の密貿易船が門司や小倉の近海を毎年のように出没するようになり、海上鎮護と異国賊船の追平を住吉の神に祈願したところ、効果があったのだそうです。
これを受け、豊前国・小倉藩の二代目藩主・小笠原忠雄の命により1732年(享保8年)、大里浜に建てられたのが住吉神社でした。
最初の神社跡にはビール工場が建設され、現在の場所には1970年(昭和45年)に再建されました。
海陸交通の守護神として、小笠原家だけでなく九州各地の大名が参勤交代で海を渡るときに海上での平安を住吉神社に祈願した、と案内板にて解説されています。
大里宿の街道松
住吉神社から門司赤煉瓦プレイスに戻り、街道松から大里宿の散策を始めましょう。
門司赤煉瓦プレイスの周辺は再開発より道幅が大きく拡張されて広くなっています。
しかし、街道松から北に進む門司往還の旧街道は、門司赤煉瓦プレイスに着く前がそうだったように、再び道幅が狭くなります。
歩行者専用道ではなく車道なので、車両もバンバン走っています。事故のないよう安全に散策しましょう。
豊前大里宿跡
街道松の前を出発してすぐ左側、「赤煉瓦交流館」の北隣りにある赤い壁の建物の脇に「豊前大里宿跡」の石碑が立っています。
石碑の別面には、
- 大里宿は直線で約646メートルの街並み
- 本陣・脇本陣・番所・群屋・人馬継所・旅籠屋が建ち並んでいた
- 西隣りには長崎番所が設けられていた
といった情報が解説されています。
この記事冒頭に添付した地図を見ていただいても分かると思うのですが、大里宿の跡地散策は大半が直線の1本道。距離も長くはなく、1kmちょっとです。
「本陣・脇本陣・番所・群屋・人馬継所」といった宿場町時代の建物は、江戸時代末期の長州藩による戦争で大半が焼失しており、跡地には石碑が立てられているのみです。
それぞれの建物の意味については文中で解説していますので、「ああ、そういう建物だったんだなあ」と想像しながら散策していただければ幸いです。
「西隣りには長崎番所が」と解説されているとおり、隣りにある赤煉瓦交流館の脇には長崎番所跡を示す石碑があります。
一里塚標石跡
「豊前大里宿跡」の石碑から北へ少し進むと、右側に石碑が立っています。
建物の陰になっているので気付きづらいかもしれません。
石碑には「一里塚標石趾」と刻まれています。
昔の街道は、一里(約4km)ごとの目印として標石を立てたり樹木を植えたりしており、歩く人は距離の目安にしていました。
人馬継所跡
一里塚標石跡から北へ少し進むと、右側に「人馬継所趾」と刻まれた石碑が立っています。
人馬継所は「問屋場」ともいわれ、宿場町では輸送を担当する主要施設でした。人足や馬が常備されており、武士や町人の身分に関係なくお金を払えば利用できたのだそうです。
参勤交代に必要な人馬の手配のほか、飛脚が運ぶ荷物なども取り扱っていました。レンタカーと宅配センターを兼ねていた感じですかね。
人馬継所跡の石碑は民家の玄関前、お庭に立っています。
私有地ですのでズケズケと侵入することは慎みましょう。
御高札・南郡屋跡
ファミリーマートを通過し、県道71号線を横断して北へ少し進むと、左手にある駐車場スペースの端に「御高札・南郡屋跡」の石碑が立っています。
県道71号線は車両の往来が多いです。横断歩道もありませんので、道路横断時はお気を付けください。
「御高札」は幕府や藩の通達を掲示する場所のことで、「南郡屋」と隣接していた(=同じ建物ではなく別々だった)そうです。
「郡屋」は「郡家」と書くこともあり、郡の役所や、郡内の村役人と藩の役人との集会所として使われる施設のことをいいます。
こちら南郡屋では、藩の役人が各村の庄屋たちに対して通達を出したり打ち合わせをした場所であったと、石碑に解説が書かれています。
重松彦之丞屋敷跡
御高札・南郡屋跡の石碑から北へ数十メートルほど進んだところに「重松彦之丞屋敷趾」の石碑があります。
ごみステーションのすぐ横にあります。電柱や街灯の陰に立っているので少々分かりづらいです。
1810年(文化7年)、幕府の命を受けて全国を測量していた伊能忠敬は大里宿を訪れた際、ここ重松彦之丞の屋敷に宿泊したと石碑に解説が書かれています。とても立派なお屋敷だったそうです。
永野九助屋敷跡
門司大里本町郵便局の先にある角を右折し、いったん門司往還の旧街道から離れます。
50メートルほど進むと左へ進む道があり、少し進むと「永野九助屋敷跡」の石碑が立っています。
永野九助は江戸時代の庄屋で、そのお屋敷は「脇本陣」でした。熊本・福岡・久留米・中津などの各藩がよく利用していた、と石碑に解説が書かれています。
脇本陣というのは本陣に次いで格式の高い宿屋のこと。本陣が最高級で、脇本陣は2番目にランクの高い宿ということなので、永野九助屋敷も立派な邸宅だったのでしょう。
本陣と脇本陣は大名・公家・幕府役人など身分の高い人が利用する宿で、特権として門・玄関・書院を設置することができたのだとか。
身分の低い武士や一般の庶民は「旅籠屋」や「木賃宿」を利用しました。
旅籠屋は食事付きの宿で、木賃宿は薪代を支払って自炊する宿だったそうです。江戸時代にもいろんなランクの宿があったんですね。
石碑が立つ場所には現在も民家があります。
屋根にはテレビアンテナだけでなくBSアンテナも設置されており、確認はしていませんが現在も人がお住みになっているような気がします。
佛願寺
永野九助屋敷跡の石碑のすぐ近く、道の反対側には「佛願寺」があります。
入口にある「鐘楼門」はとても立派で、その左脇には大きなイチョウの樹が立っています。
今回訪問したとき(2023年12月)は枯れ落ちた大量のイチョウの葉が鐘楼門の前を埋め尽くしており、とても風情のある景色となっていました。
佛願寺は1866年(慶応2年)の幕末動乱期、長州藩の騎兵隊が幕府軍と戦った際に火をかけられ、本堂・鐘楼門・庫裡が消失したのだそうです。
本堂と庫裡は1884年(明治17年)に、鐘楼門は1898年(明治31年)にそれぞれ再建されました。
また佛願寺は幕末に寺子屋として子供たちに読み書きを教えており、1873年(明治6年)には「大里学校」が設立され、現在の大里柳小学校の開校へと繋がったのだそうです。
門司の学校教育はここから始まったのだと言えますね。
御在番役宅・浜郡屋跡
再び門司往還の旧街道に戻り、北へ進みます。
郵便局のあった角から北へ100メートルほど進むと店舗があり、ジュースの自動販売機が見えます。
「御在番役宅・浜郡屋跡」の石碑は自動販売機のすぐ横に立っています。
在番役宅は「在番」という役人の家。ここから少し先にあった「御番所」に勤務していた役人のことだそうです。
郡屋は村役人などの集会所。「御高札・南郡屋跡」のところで解説したとおり。
こちら浜郡屋は大里の港に出入りする人および船舶の検問・取り締まりなどを役人たちが情報交換する場所だったようです。
御在番役宅・浜郡屋跡の石碑が立っていた場所の店舗に「大里宿場絵図 ご希望の方、差し上げます」という貼り紙を発見。
遠慮なく店舗内にお邪魔して紙の絵図をもらうことができました。嬉しくてめちゃくちゃテンション上がりました。街道松の近くに掲示されていた絵図とほぼ同じ内容のはずです。
それまでの散策ではスマホの地図を見ていたのですが、ここから先は紙の絵図を見ながら散策しました。本当にありがとうございました!
絵図は地元の市民団体「大里文化会」が制作されたそうです。
本陣(お茶屋)跡
御在番役宅・浜郡屋跡の石碑から少し進んだ右側には鳥居が立っており、参道の奥には八坂神社があります。
その鳥居の左脇に「本陣(お茶屋)趾」の石碑が立っています。
本陣は、宿場町の中で最高級ランクの宿。「永野九助屋敷跡」のところで解説したとおり。
江戸時代には参勤交代で大里宿を訪れた九州の諸大名、長崎や日田の代官、オランダ使節などがここ本陣に宿泊したとのこと。
本陣が建つ前、ここには「西生寺」というお寺が建っていました。移転した西生寺は現存し、この記事の後半で登場します。
このあたりが宿場町・大里宿のちょうど中心に位置するようです。
八坂神社
本陣(お茶屋)跡の石碑があった鳥居から奥へ進むと八坂神社に到着します。
鳥居の右脇には大里宿に関する分かりやすい解説板があります。
八坂神社の境内には「猿田彦大神」や「興玉神」など、いろいろなサイズや形状をした石碑が並んでいます。
御番所跡
八坂神社から本陣(お茶屋)跡の石碑がある場所まで戻り、右折して門司往還の旧街道に戻ります。
右折してすぐの場所に鉄工所があり、建物の陰に隠れるように石碑が立っています。
「御在番役宅・浜郡屋跡」の場所に住んでいた在番という役職の人は、ここにあった番所に勤務していたことになります。
庄屋石原宗祐屋敷跡
赤いレンガが印象的な建物(飯野物産門司営業所)を通過し、県道を横断してすぐ左側に「大里村 庄屋石原宗祐屋敷趾」という石碑が立っています。
ちょっと分かりづらい場所なのですが、アパート前にごみステーションが2つ並んでおり、その中央に石碑があります。
史跡なのにごみステーションと化しているのは、ちょっと複雑な心境になります。
石原宗祐という人物は、江戸時代に凶作で苦しんでいた農民を救済するため、私財を投じて門司や小倉に新田を開作し、郷土の誇りとなった功労者であることが石碑に解説されています。
大専寺
庄屋石原宗祐屋敷跡から北へ少し進んだ場所に「大専寺」というお寺があります。
保育園が隣接しており、訪問したときは園児たちが園庭で大騒ぎしながら遊んでいました。サッカーのワールドカップ並みに熱狂的でした。
お寺の中を撮影したかったのですが、園児たちに「ヘンなオジサンがしゃしんとってる」と指を差され、保育士さんから冷たい視線を浴びる恐怖を想像したら、近寄る勇気は湧きませんでした。
西生寺
大専寺のすぐ近く、道の反対側には「西生寺」というお寺があります。
小倉藩がまだ細川氏の所領だった頃、この場所には細川小倉藩の二代目藩主・細川忠利の浜御殿(お茶屋)が建っていたそうです。
その後、小倉藩は小笠原氏の所領となり、1670年頃(寛文年間)に小笠原小倉藩の二代目藩主・小笠原忠雄の命令によって、もともとは八坂神社の前に建っていた西生寺をこの場所に移転させた、と案内板に解説があります。
旧西生寺の跡地には本陣が建てられました。「本陣(お茶屋)跡」の石碑が立っていた場所です。
西生寺の敷地内は広く、奥にある第2駐車場の北端には古井戸が残っています。
細川忠利が小倉藩主だった頃の浜御殿で使われていたと伝えられています。
大里渡海口
西生寺から北へ進み、突き当たりを左折するとすぐ、国道199号線の「大里本町一丁目」交差点に着きます。
ここが大里渡海口の跡地になるようです。
参勤交代の大名たちは、ここから船に乗って関門海峡を渡り、向こう岸の長門国・赤間ヶ関(現在の山口県下関市)に移動したのだそうです。
現在は関門製糖という会社の所有する私有地となっており、道路脇はフェンスで覆われていて接近することはできません。
今回参考にした書籍にもここが渡海口だと解説されていますし、Googleマップにも史跡として記録されています。
しかし、今回の散策途中でいただいた紙の絵図によれば、別の場所に港の跡があると記載されていました。
気になったので、そちらにも行ってみることにしました。
大里宿湊口跡
大里渡海口とされる「大里本町一丁目」交差点を左折し、国道199号線を南に進みます。
「大里本町一丁目」交差点から100メートルほど南へ進むと、海沿いに「海峡レストラン ぶぜん」という店舗が建っています。紙の絵図に書かれていた場所はここ。
店舗入口の左脇に石碑が立っていました。上の写真、赤い矢印の場所です。
石碑には「大里宿湊口跡」と書かれています。
湊口ということは港の入口だったのかもしれず、渡海口からここ湊口までは100メートルほど離れています。
どちらの場所から船が出ていたのかは定かではなく、どちらの情報も正しいのかもしれません。となると、港はけっこう広かったことになります。
レストランの横には広い駐車場があり、その端から関門海峡の雄大な風景を眺めることができます。向こう岸は山口県下関市。
とても美しい風景でいつまでも眺めていたいのですが、レストランの中からチラチラと集まるお客さんたちの視線に耐える必要があります。
宮本武蔵と佐々木小次郎が(少し前だとアントニオ猪木とマサ斉藤が)決闘をした巌流島がどこかに写っているはずなのですが、よく分かりませんでした。
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宮本武蔵も佐々木小次郎もアントニオ猪木も闘った巌流島に初上陸
2013年10月19日、ウォーキング大会の流れで巌流島に初上陸してきました。(JR門司港駅→関門人道トンネル→唐戸市場→巌流島→九州鉄道記念館→JR門司港駅)
明治天皇上陸の地
門司往還とは関係がないのですが、「大里宿湊口跡」の近くにも史跡があったので、最後に少し寄り道をしてきました。
大里宿湊口跡の石碑があった場所から国道199号線をさらに南へと進みます。
湾曲した海岸線を進んで船が停泊している小さな港まで行くと、国道のすぐ脇に「明治天皇記念之松」碑と書かれた案内板が設置されています。
案内板のある場所から海に向かってまっすぐ歩くと、海のすぐ前に「明治天皇記念之松」という石碑が立っています。ただし現在、松はありません。
案内板の解説によると、1902年(明治35年)11月10日、明治天皇は熊本でおこなわれた陸軍大演習を視察するため海路で下関から移動し、石碑のある場所あたりで大里に上陸したのだそうです。
この上陸を記念し、1914年(大正3年)に地元の人々が松の樹を植樹し、同時に石碑を建立したのだとか。なので石碑には「記念之松」と書かれています。
また、源平合戦が繰り広げられていた平安時代末期の1183年(寿永2年)、源氏の木曽義仲が京に入ったことで都を追われた安徳天皇と平家の一門が、大里のこの辺りから九州に上陸した後、「柳の御所」にて一時的に滞在したことも説明板の解説に書かれています。
「柳の御所」があった場所には御所神社が建造され、JR門司駅の東側に現在も建っています。
御所神社
せっかくなので、御所神社にも足を運んできました。
御所神社は門司往還の旧街道から離れているので、立ち寄るのであれば散策の最後、余力があればで良いと思います。
国道3号線をJR門司駅から少し北に進み、「大里戸ノ上」交差点で東に右折し、500メートルほど進んで「御所神社前」交差点を左折すると、神社入口があります。
入口の道路沿いには「大里郷土資料室」の看板や「柳の御所」についての解説板が立っています。
また境内には、京から大里へと逃れた平家の公家たちが都を偲んで詠んだ歌の碑もいくつか立っています。
都なる 九重の内 恋しくは
「平家物語」より
柳の御所を 立寄りてみよ
1902年(明治35年)に明治天皇が熊本視察のため大里海岸から上陸し、大里停車場構内にあった休憩所で休憩をされました。
この休憩所を安徳天皇が仮御所とした「柳の御所」の跡地に移設しようと地元民が動き、それが実って翌年ここに移設造営された、と案内板に解説が書かれています。
赤い屋根の正面中央には「菊の御紋章」が埋め込まれているのが見えます。
JR小森江駅(久留米屋敷)
「大里渡海口」があったとされる「大里本町一丁目」交差点から国道199号線を北へ500メートルほど進んだところに、JR小森江駅という小さな駅があります。
JR小森江駅の手前でJR山陽本線とJR鹿児島本線は分岐します。
山陽本線は西へ進み、海中の関門トンネルを経由して山口県のJR下関駅へ、一方の鹿児島本線は小森江駅を通過後に終点のJR門司港駅へ、それぞれ向かいます。
JR小森江駅の西側は現在「関門製糖」という企業の工場が建ち並んでいます。このあたりも昔は海岸でした。
以前は「日本製粉門司工場」があったのですが、1997年(平成9年)に廃止され、2004年(平成16年)に解体されました。
江戸時代、参勤交代で九州の諸大名が大里宿に集中し始めたことで、繁忙期には本州への渡航や物資の輸送が不便となっていたのだそうです。
この状況を予見した久留米藩藩主・有馬氏は、小倉藩藩主・小笠原忠真から海岸の土地を借り受け、自藩のための屋敷や船乗り場を建設しました。
この一帯は「久留米屋敷」と呼ばれていたのだそうです。
久留米藩は参勤交代の際に混雑する大里宿を利用することなく、自分たちの屋敷に宿泊し、自分たちの船で下関・赤間に渡航したということです。当然ながら久留米藩の物資輸送も自前の船でおこなったのでしょう。
1643年(寛永20年)に久留米藩が大里に土地を借りたという記録が残っています。
参考資料
門司往還のコースや各所の歴史解説などは、『長崎街道/大里・小倉と筑前六宿』という書籍を参考にさせていただきました。
また2024年2月に出版された「地球の歩き方・北九州市」の地域情報(小倉北区、門司区)も参考にさせていただきました。