[Я]懐かしのプロレスラー列伝#20:アンドレ・ザ・ジャイアント

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突然レッスルマニアにアンドレの冠試合が

これを書いてる時点で日本でのPPV放送が2週間後に迫っている、アメリカのプロレス団体・WWEの年間最大イベント、レッスルマニア。今年は通算30回目となる記念すべき大会。(試合開催は現地時間の4月6日)

そのレッスルマニア30に関連して、80年代のWWE(当時の団体名はWWF)で絶対的エースだったハルク・ホーガンが7年ぶりにWWE復帰。最近は毎週のようにRAW(=WWEのテレビ番組)に登場し、レッスルマニアに向けてのアジテーションを敢行しています。

その中でホーガンが突如発表したレッスルマニアの企画の一つが「30人対抗アンドレ・ザ・ジャイアント・メモリアル・バトルロイヤル」。優勝者にはアンドレ像トロフィーが贈呈されるとのこと。

どういう思惑で突如アンドレの冠試合が組まれたのかも分からないし、そのトロフィーにどんな価値観を持たせるのかも不明。ホーガン復帰ということで、かつてのライバル、アンドレをフィーチャーする意図なのか、何か他に意図があるのか。

しかしいずれにせよ、アンドレはWWEにおける功労者の一人であることは事実。今年で30回もの回数を重ねたレッスルマニアも、最初の中心人物はホーガンとアンドレでした。1987年に開催された第3回レッスルマニアにおける「ホーガンがボディスラムでアンドレを投げきるシーン」は現在も名シーンの1つとして頻繁に流されています。またWWE殿堂の第1号もアンドレでした。

無名時代、国際プロレスに初来日

名作コミック『プロレススーパースター列伝』によれば、アンドレはフランスの山中で木こりをしてたところをスカウトされたような描写になってますが、それってウソらしいですね。おもいっきり信じてましたわ。

プロレスデビューが1964年で、国際プロレスに初来日したのが1970年。まだ無名で、当時のリングネームは「モンスター・ロシモフ」だったアンドレ。国際プロレスでは「神様」カール・ゴッチにフォール勝ちするなど、大器の片鱗を見せ始めてるような描写も『スーパースター列伝』にあります。

この国際プロレス初参戦がアンドレにとって転機になったのは事実らしく、当時アメリカの三大団体の1つ、AWAの総帥バーン・ガニアも同時期に来日していて、アンドレはガニアに師事し、関節技やプロレスの基礎的ムーブを叩き込まれたことで大きく飛躍したらしいです。

新日本プロレスで大暴れ

その後、アメリカでWWWF(=現在のWWE)と契約。名前もアンドレ・ザ・ジャイアントと改名し、当時WWWFと業務提携していた新日本プロレスに初参戦したのが1974年。アントニオ猪木と幾多の名勝負を繰り広げ、当時テレビ朝日のアナウンサーとして実況していた古舘伊知郎から「大巨人」「人間山脈」「一人民族大移動」など、いろんな異名を付けられてました。

223cmの巨体に、ワッサワッサと盛り上がったアフロヘア(あれってカツラだったらしいですね)。誰が見ても怖い風貌で、日本では長らくヒール的な立ち位置で日本勢と対決していたアンドレですが、アメリカではベビーフェースの時期が長かったみたいです。

新日本時代で覚えてるアンドレ関連の試合というと、全日本プロレスの世界最強タッグリーグに対抗した「MSGタッグリーグ」で優勝してました。パートナーはレネ・グレイという選手でしたが、彼が何者だったのか今も分からない。

1981年、田園コロシアムでのスタン・ハンセンとのシングルマッチは伝説になってますね。私はリアルタイムではなくビデオで試合を見たのですが、デカい二人の戦いは迫力がありました。

1986年に行われたアンドレvs前田日明の試合は、最後はアンドレが自らリング中央に横たわって試合放棄状態になるという異様な展開。この試合はテレビで放送されず、後にYouTubeで見ました。

パッと見た目は、第1次UWFが崩壊して新日本に戻ってきた前田の蹴り主体なスタイルをアンドレが嫌悪し、付き合わなかった結果として通常のプロレス的な攻防に全くならなかった。この試合に関しては諸説あって、何が真実か分からない、今も謎な試合です。

WWFが主戦場に、そして全日本へ

新日本がWWFとの業務提携を解消したこともあり、アンドレが新日本に来日する機会はなくなり、アメリカWWFが主戦場となります。

1990年、WWF・全日本・新日本3団体の合同興行として東京ドームで開催された「日米レスリングサミット」でアンドレは久々に来日し、ジャイアント馬場とタッグを結成してWWFのタッグユニット、デモリッション(アックス&スマッシュ)と対戦。

フィニッシュはアンドレのエルボードロップだったと記憶してますが、フィニッシュ技というよりも、足と腰の負傷や衰えで全く動けなくなったアンドレが苦肉の策として編み出した「単に寝てる相手に倒れ込む」だけの攻撃という印象で、見方によっては「巨体を活かした圧殺技」なんでしょうけど、よっぽど足腰が悪いんだなーと感じてました。

同じ1990年にWWFを退団し、主戦場を全日本プロレスに移したアンドレは、馬場さんとの大巨人コンビで年末の世界最強タッグ決定リーグ戦にも出場。新日本時代の怖い風貌も消え、完全ベビーフェースとして馬場さんと共にファンから多くの声援を集めていました。

雑誌・週刊プロレスでアンドレの特集が何度か組まれていたのですが、自宅近辺を電動カーのような乗り物で移動している写真が掲載されていて、日常生活での歩行もままならない事が伝わってきました。

足腰の悪化と共に、アンドレは常人では考えられないほどの酒豪だったそうで、お酒を飲み過ぎた影響もあって歩行が困難になってたのだそうです。お酒を飲み過ぎてるのに足腰が悪いのでトレーニングも出来ず、体調がどんどん悪化するという悪循環。

アンドレ生涯最後の試合は、1992年12月4日、日本武道館で開催された全日本プロレス・世界最強タッグ決定リーグ戦の最終戦。私はこの大会を武道館の一番高い席から生観戦してました。生まれて初めてのプロレス生観戦。

※高かったのは値段じゃなくて標高。つまり、武道館の屋根のすぐ下にある座席から観戦してました。リングめっちゃ小さかった。

翌1993年1月、アンドレはお父さんが亡くなり、葬儀のため帰国した故郷パリのホテルで急性心不全のため死去。お酒の飲み過ぎと、トレーニング不足による衰えが要因だったと言われています。享年46歳の若さでした。

前述の武道館大会では、「悪役商会」というユニットで人気者だった大熊元司選手が対戦相手でした(馬場・アンドレ・ラッシャー木村組vs渕・大熊・永源組)。

大熊選手は武道館大会の3週間後、12月27日に急性腎不全のため死去。享年51歳。

二人の名レスラーが生涯最後の試合となった場に居たんだなと、相次ぐ訃報を知ってとても切ない気持ちになったのを今も覚えています。

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