馬場さんも理解できなかったスタイル
そもそも、なんでこの人に「殺人医師(ドクター・デス)」という異名が付いたんですかね。
医師といったら手術の際のメスさばきに代表されるように「ち密で繊細」「乱れのない動き」というイメージじゃないですか。
ウィリアムスの場合、そのファイトスタイルは全く予測不可能。破天荒というか、次に何をやってくるか観てる側も読めない。
同じような「ハチャメチャなスタイル」の代表格、スタン・ハンセンとウィリアムスのシングルマッチを解説した馬場さんが、
「僕はこの人たちが一体何をしたいのか全然わかりません」
と言ったのは伝説になってます。ドタバタな試合ですもんね。でもまたその粗さ(荒さ)が面白かったりするのもプロレス。
新日本時代は猪木と対戦しないことが神話になってたが
ウィリアムスが日本で人気絶頂になったのは全日本ですが、そもそもは新日本の常連外国人でした。
新日本の在籍時から強い強いと言われていて、猪木とのシングルマッチをファンは切望してたのですが(=私も楽しみにしてた)、結局シングルは一度も実現しなかったんじゃなかったかな。
UWF崩壊後に出戻ってきた前田日明とも猪木はシングルで闘っておらず、同じようにウィリアムスとの対戦を組まなかったことで「猪木は逃げた」という人もいます。
確かに前田といいウィリアムスといい、誇張でも売り文句でもなく「ぶっ壊し屋」と呼ばれた荒さがあったので、意図的に猪木を始めブッキングする側がカードを組まなかったのかもしれません。
でも一説によれば、タッグで猪木とウィリアムスが対戦した時に、ウィリアムスが何かしら「暗黙の了解」的なことを破っちゃったらしいですね。意図的に破ったのか、それとも例によってハチャメチャで本能的なスタイルのため意図せずヤラカシちゃったのか。
猪木が逃げたのか、それともカードを組ませないという意味で干されたのか、その真相は知りません。それもあって全日本に移籍しちゃったのだろうか。
ウィリアムスと猪木はIWGP選手権でシングル対決したことがあるそうです。Twitterにて教えて頂きました。
殺人魚雷コンビで開花
全日本に移籍したタイミングでウィリアムスはゴディとタッグを結成。全日本でのテレビ初登場もゴディ&ウィリアムスでのタッグ戦でした。
これ、結構意外な組み合わせだったんですよ。ゴディはアメリカでマイケル・ヘイズたちと「ファビュラス・フリーバーズ」という超有名チームを結成していたし、一方のウィリアムスもマイク・ロトンドたちと「バーシティー・クラブ」というユニットを作ってました。
海外のプロレス情報は雑誌で入手してた程度だったので、ゴディとウィリアムスが本国アメリカでどういう接点があったのかは知りませんが、とにかく全日本に移籍していきなりゴディとタッグというのは少々驚きでした。
ゴディ自身が日本ではフリーバーズとしてではなく「ハンセンのパートナー」という位置づけで長らく闘っていたので、どうしても2番手というイメージがファンにも浸透していました。
ウィリアムスとタッグを組ませることでゴディ自身の格も上げることが出来るし、ウィリアムスも浮上させられる、と踏んでのタッグ結成だったようにも思います。結果的にこれが大成功して、ゴディもウィリアムスもトップスターになった。
それまで誰も成し遂げられなかった「最強タッグ連覇」をゴディ・ウィリアムス組はやってのけましたからねー。ちなみにその試合、私はナマで見てました。日本武道館で。
全盛期のハンセン・ブロディ組(超獣コンビ)とゴディ・ウィリアムス組が対戦したら面白かったろうな~、というのはファンの間でよく語られてましたね。私はブロディ信者だから超獣コンビが勝つと思ってますけど。
シングル転向でバックドロップ解禁
快進撃を続けてたゴディ・ウィリアムス組でしたが、体調不良によりゴディが戦線離脱。来日中に一度、心肺停止状態になり命が危ない状態にまでなってたんだとか。
ゴディがしばらく来日できなくなったことでウィリアムスはシングル路線へと変更。ここで代名詞となる「デンジャラス・バックドロップ」を本格的に解禁し、フィニッシュ技として使うようになります。
全日本に移籍してすぐの頃だったか、谷津嘉章とのシングル戦でフィニッシュにバックドロップを使い、谷津が肋骨骨折の重傷で欠場に追い込まれたため、自粛したのか団体から禁止されたのかは知りませんが、しばらく封印してたのです。
谷津が骨折した試合はテレビ放送され私も観てましたが、バックドロップのシーンは真横からではなく谷津の正面から撮影するカメラ位置だったため、谷津がどういう角度で落とされたのか、受け身はどうだったのか等は確認できませんでした。
ゴディ離脱後のシングル路線でバックドロップを解禁。しかも落とし方がエゲつなかった。相手が受け身の上手な全日本の選手だというのもあったのでしょうけど、三沢・川田・小橋などに対して脳天から垂直に落とすバックドロップは見ていて鳥肌モノ。
遂にはシングルの頂点である三冠王座も獲得。ここまでは順調だったんですよ。
晩年は波乱万丈だった
その後、小橋やジョニー・エースが中心となって「GET」というユニットを結成すると、それに対抗してウィリアムスはゲーリー・オブライトたちと「TOP」というユニットを結成。ちょっとした軍団対向モードに。
しかし道半ばで相棒のオブライトが急死。亡くなった直後の大会で、ウィリアムスが勝利した後、TOPのアピールポーズである「両手で△マーク(TOPのTはトライアングルの意味)」を作り、オブライトを偲んでたのが印象的でした。
やがてウィリアムスは全日本を離脱し、アメリカのWWF(現在のWWE)に移籍。ウィリアムスのためと言ってもいい総合格闘技系のイベントをWWFが企画してくれたのに、エースとなるべきウィリアムスはバート・ガンにKO負け。
「期待外れ」の烙印を押されたウィリアムスは活躍することもなくWWFを退団。一方のバート・ガンは「ウィリアムスにKO勝ちした男」ということでWWF離脱後に全日本の常連となっちゃう皮肉な逆転現象に。
WWF退団後、全日本に少し復帰を果たした後、IWAジャパンというインディー団体へ参戦。しかしここで喉頭ガンを発症。声帯を全摘出する手術をおこない休養を余儀なくされます。
最後に来日した2009年には痩せていたものの、笑顔のウィリアムスを見ることが出来てファンも一安心。ただ声帯を除去し、機械で発生する器具を着用していました。
秋には日本で引退記念試合も企画されていましたが、ガンが再発。2009年の12月に死去。享年49歳でした。