1986年4月8日、突然の訃報
高校3年生としての生活が始まったばかりだった。
放課後の部活動。バレーボール部の主将だった自分は、見学に来てくれた新1年生数名に歓迎の言葉をかけつつ、部員の1名が体育館に来ていないことに気付いていた。
練習開始から20分後にようやく到着した、その2年生部員を体育館の端に呼び寄せて叱った。「1年生が見学に来るかもしれないから、たるんだ姿を見せるなよと昨日注意したばかりやろ」
「すみません!」と謝罪した2年生部員は、慌てて言葉を繋いだ。「でも、りくさん、大変ですよ」
何がだよ、と返すと彼は答えた。「荷物を取りに家に帰ってたんですけど、そしたら母ちゃんが『岡田有希子が死んだ』って言ってたんですよ」
はあ?
こいつ、何てことを言うんだ、と思った。よりによって部活に遅刻した理由がそれか? 彼は、自分が岡田有希子のファンだということを知っている。
おそらく、かなり凶悪な表情に変わっていたのだろう。こちらの表情を見て彼は余計に慌てた。
「あ、いや、『岡田有希子が芸能界を引退した』って意味かもしれません、母ちゃんもよく分かってなくて、俺もテレビで詳しいニュース見ようと思ったんですけどその時間は別のニュースやってて、それでちょっと遅れました、すみません!!」
練習は最初から最後までいつも通りにこなした。見学に来てくれた新1年生たちに入部の勧誘をして、部員たちには翌日の練習メニューを伝え、部室で着替えを済ませ、いつもの倍くらいの猛烈なスピードで自転車を漕ぎ、自宅に着いてからすぐテレビをつけた。
夕方のニュース番組は、どこにチャンネルを変えても全ての局が「岡田有希子、自殺」のニュースだった。
翌日に発売されたスポーツ新聞も、その週に出た写真週刊誌も全て買った。亡くなった直後の、彼女のグロテスクな写真を掲載しているメディア媒体もあった。
あの日、見学に来てくれた新1年生たちは全員、バレーボール部に入部してくれた。しかし彼女が亡くなってからの1週間ほど、なんだか夢を見ているみたいで、高熱でアタマがボーッとしているかのような、フワフワした、現実的ではない時間が流れているようだった。
初めて見たのはグリコのCM
岡田有希子は1984年にデビューしている。デビュー直後、グリコの「カフェゼリー」という商品のテレビCMにいきなり彼女は登場し、こちらに向かって憂いのある笑顔で微笑んでいた。BGMには彼女のデビュー曲「ファースト・デイト」が流れていた。
いきなり登場したその女性に、最初の邂逅ですぐ好きになった。
シングルのレコードも、ファーストアルバムも、出版された写真集も全部買った。
この年、彼女は年末の「日本レコード大賞」で最優秀新人賞を獲得。
賞レースで最大のライバルは吉川晃司で、他の新人賞を獲ったり獲られたりしていた。岡田有希子が受賞すると、吉川晃司の女性ファンが「帰れ!」と大合唱するのがものすごく不快だった。
1985年にはドラマ「禁じられたマリコ」で初主演。
1986年1月にはシングル『くちびるNetwork』(作詞:松田聖子、作曲:坂本龍一)がオリコンチャートで1位を獲得。
さあこれからという時に、彼女はこの世を去ってしまった。
岡田有希子に会った最初で最後の日
故郷の鳥取県米子市では毎年夏に「がいな祭り」という大きなお祭りが開催される。
今は北九州市に住んでいて、現在の「がいな祭り」がどうなっているのか詳しくは知らないが、昔は毎年、米子駅前の特設ステージに女性アイドルを呼んでミニコンサートをするのが人気だった。
1984年にも4名の女性アイドルが米子駅前にやって来た。メインは早見優だったが、岡田有希子も1番手か2番手で登場した。他の2人はもう忘れた。
デビュー直後の彼女は、アイドルの正装とでも言うべき可愛らしいドレスとミニスカートを身にまとい、CMソングでもある「ファースト・デイト」を歌ってくれた。
当時高校1年生の自分は、岡田有希子を目当てに米子駅へ行った。最前列には行けなかったが、比較的前のほう、3メートルくらいの距離で、登場から退場まで食い入るように彼女を見つめた。
生身の岡田有希子と会ったのは、あれが最初で最後だった。
亡くなる前年の1985年、米子市公会堂で岡田有希子のコンサートが開催されると発表されたが、コンサート当日はどうしても外せない別件があったため、チケットは買わなかった。
そのコンサートは開催されることなく、事前に中止が発表された。真相は知らないが、「チケットがあまり売れなかったから中止になった」と聞いた。
前年の最優秀新人賞を獲ったアイドルのコンサートだというのに、チケットの売れ行きが芳しくないから中止になるなんて事態がある、ということにショックを受けた。
そして自分自身もチケットを買わなかったことをすごく悔やんだ。岡田有希子に申し訳なく思った。翌年に亡くなってしまったから余計に悔いが残っている。
お墓参りに行けなかった
2017年5月、2泊3日で愛知県名古屋市に行った。
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【名古屋旅】名古屋駅前のビル群を見上げ、オアシス21から栄の街を見下ろす
名古屋旅行の初日、昼食を食べて屋外に出ると雨が止んでいたので、名古屋駅から栄まで散策。さらに栄の名古屋テレビ塔とオアシス21を散策してきました。
メインの目的は名古屋城で開催されたイベントへの参加だったが、他にも名古屋市内の行きたい場所を訪れ、食べたかったものを食べ、市内をウォーキングするなど、充実した3日間だった。
この名古屋旅行は事前に綿密な計画を立てたのだが、その計画の中に「岡田有希子のお墓がある成満寺(じょうまんじ)に行く」というプランがあった。
成満寺は愛知県愛西市にある。名古屋駅からJR関西本線・弥富駅まで約20分、あるいは近鉄名古屋線・弥富駅まで約15分。駅から成満寺までは徒歩で約45分。
なので片道約1時間。お寺で参拝と電車での往復を合わせて約2時間半ちょっと。
この2時間半を旅行期間中に捻出するのがとても難しく、悩みに悩んだ結果、「どこかで時間の余裕が出来たらお墓参りに行こう」と優先順位を下げてしまった。
結局、ウォーキングなど他のスケジュールで時間を目一杯使ってしまい、成満寺のお墓参りは実現しなかった。
名古屋に行く機会が滅多にないのもあり、やっぱり成満寺の優先順位をもっと上げれば良かったと、4月8日が来る度に後悔してしまう。
毎年、岡田有希子の命日である4月8日の前後、成満寺にあるお墓は多数の花で彩られると聞いている。今年もおそらく岡田有希子を偲ぶ人々の愛と共に、たくさんの綺麗な花が墓前に並ぶのだろうと想像している。
生きている人たちに出来ること
初めて存在を知った頃、岡田有希子も、自分自身もまだ10代だった。
18歳で彼女は天に召され、多くのファンが後を追ったことで社会問題となり、国会でも若者の自殺問題が取り上げられた。
彼女の死後、実に多くの記事やニュースが出た。ドラマの共演者と恋愛関係にあったとか、別の芸能人と付き合ってたとか、果ては妊娠だの何だのとゲス極まりないものまで。
彼女の家族が出版した自伝的書籍も買ったし、真相は何なのだろうと追ってた時期もあったけど、すぐにどうでもよくなった。
真相が何であれ、彼女はもう違う世界に行ってしまったのだし。メディアの妄想記事に踊らされて無駄な時間を費やしたくはない。どうでもいい。彼女はもういない。
当時10代だった若者たち、死ぬのではなく生きることを選んだファンたちは40代、50代になり、36年経った今でも岡田有希子を想い、愛し、手を合わせている。
長いこと生きていれば、様々なことがある。自分の周囲も身近な人々が天に召された。妻の両親、自分の父親、高校時代の恩師、仕事で大変お世話になった人々、学生時代の同級生。
自分自身も精神を病み、過去には何度も違う世界に行きそうになった。でも踏み留まって今がある。
生きている人たちに出来ることは、亡くなってしまった人たちを思い出すこと。亡き人のことを思い出し、家族や友人と亡き人について語ることで、彼らが今でもずっとみんなの中で生き続けているのを実感できる。
それが互いに「生きる」ということの証にもなる。亡くなった人々に対してだけでなく、生きている我々自身も同様に、命の繋がりと輝きを見つめることが出来る。
今はそう信じているし、家族にも伝え続けている。
これからも、4月8日が来る度に岡田有希子のことを思い出し続ける。そして次に名古屋へ行く機会があれば、今度こそ成満寺に行き、3メートルの向こう側で可愛いドレスとミニスカートを身にまとっていた岡田有希子の姿を思い浮かべながら、手を合わせるつもりである。