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ジャイアント馬場:武道館の最上席から見た王道【レスラー列伝#4】

2012年9月25日

プロ野球選手からプロレスラーに転向

今回紹介するのは、我々世代であればプロレスファンならずとも誰もが知っているジャイアント馬場さん。バラエティー番組に出演していたこともあり、知名度は抜群でした。

馬場さんは元々、野球選手でした。

新潟県の三条実業高校(現在の新潟県央工業高校)在学中の1954年、読売ジャイアンツのスカウトに声をかけられ、高校を中退。投手としてプロ野球入りしました。

後にジャイアンツのスターとなる長嶋茂雄さんは4年後輩、王貞治さんは5年後輩でした。

プロ野球では活躍できず、投手としては1軍で3試合のみ登板し、通算成績は0勝1敗。

1960年1月、宿舎の風呂場で転倒して重傷を負い、これが原因で野球選手としての活動を終えました。

同年4月、日本プロレスを率いていた力道山にプロレス入りを直訴し、認められてプロレスラーとなります。同期にはアントニオ猪木さんがいました。

1960年9月に本名の馬場正平(しょうへい)としてプロレスデビュー。大きな体格を活かしたスケールの大きいレスリングが評価され、デビュー翌年にはアメリカへの海外修行を認められます。

アメリカでは「ショーヘイ・ビッグ・ババ」や「ババ・ザ・ジャイアント」というリングネームで活動。1963年には正式なリングネームを「ジャイアント馬場」とします。

力道山の死後、日本プロレスのエースに君臨

1963年12月に師匠の力道山が急死。馬場さんは日本プロレスのエース格となり、シングルやタッグの王座を次々と獲得。同期の猪木選手とタッグを組んだ「BI砲」としてもタッグ王座を獲得しています。

1972年に日本プロレスを退団し、10月には新団体「全日本プロレス」を旗揚げ。

当時の最高峰だったNWA世界王座を1974年に初めて獲得し、通算で3度の王座に輝きました。またNWAの副会長にも就任しています。

晩年はラッシャー木村選手とタッグを組み、悪役商会との楽しい試合で観客を喜ばせていました。

1999年1月、入院先にて死去。享年61歳でした。

赤ん坊の頃、頭を撫でてもらった

実は私、馬場さんには2回会っています。そのうち1回は会ったというより試合観戦なんですけどね。

初めて馬場さんに会ったのは、私がまだ赤ん坊の頃。当然ながら記憶はありません。

私を連れた両親は新幹線に乗っており、グリーン車に馬場さんがいるのを知ったそうです。ウワサを聞いたとかではなく、トイレに行くため移動していたら馬場さんを目撃したのだとか。

両親はグリーン車に行き、馬場さんに握手をしてもらったのだそうです。くつろいでいたはずなのに、私の両親が失礼をいたしました。

その際、馬場さんは赤ん坊の私を見て、頭を撫でてくれたのだとか。

ずいぶん後になり、私がプロレスファンとなってから母親がそのことを教えてくれました。

「お前がプロレス好きになったのは、きっと馬場さんが頭を撫でてくれたからだろうね」と。

でも私、バリバリの「新日派」だったんですけどね。

熱狂的な新日派だった

私が小学生の頃だったか、プロレスブームが到来しました。藤波辰巳(現:辰爾)がジュニアヘビー級で、チャボ・ゲレロやエル・カネックたちと抗争していた頃です。

初代タイガーマスクの登場で、私の周囲もプロレスブームが爆発。みんながプロレス大好きになっちゃった。

私を含む友人たちが大好きだったのは、「アントニオ猪木の新日本プロレス」。つまりみんなが「新日派」だったんです。

ジャイアント馬場率いる全日本プロレスの「全日派」もいたけれど、肩身が狭そうでした。

私は新日本だけでなく全日本も毎週テレビを見ていました。日本人選手というよりは外国人選手が好きで、いちばん好きだったのはブルーザー・ブロディ。

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1981年12月、新日本プロレスで大活躍していたスタン・ハンセンが全日本に電撃移籍し、その後に馬場さんと最初のシングルマッチを戦いました。

新日派としては、申し訳ないけど馬場さんをボッコボコにして完勝してもらいたかったんです。しかし結果は馬場さんがハンセンに勝った。

全日派の友人は大喜び。「やっぱり猪木より馬場が強いと証明された」と。

それを聞いて新日派が怒るんですよね。「ハンセンが怪我か何かして調子悪かっただけだ、猪木の方が強いに決まってんだろ」みたいに口論が始まる。

私は誰とも口論しなかったけど、内心「馬場がハンセンに勝つなんて…」とショックを受けたのは事実です。

馬場さんが嫌いとかじゃなかったんですよ。新日本プロレスのほうが強い、と信じ切ってたんです、当時はね。

初めてプロレス観戦したのは全日本だった

馬場さんと会った2回目は、初めてのプロレス観戦でした。新日派だったのに、初のプロレス観戦は全日本プロレスだったんです。

東京の会社に勤めていた頃、同期の女の子が「プロレスを見たい」と言い始め、プロレス大好きな私を強引に誘ってきました。

1992年12月4日、日本武道館で開催された「世界最強タッグリーグ」の最終戦。2人分のチケットは取れたけど、自分たちの座席は武道館の一番上でした。

1992年の最強タッグは、田上明選手とタッグを組んで出場予定だったジャンボ鶴田選手が急病により欠場となり、田上明選手の新パートナーとして大抜擢されたのが秋山準。秋山選手はこの年デビューの新人選手でした。

私が観戦した武道館大会で、馬場さんは「大巨人」アンドレ・ザ・ジャイアント、そしてラッシャー木村選手とタッグを組み、大熊元司&永源遙&渕正信の「悪役商会」と6人タッグ戦で戦いました。

大熊選手は試合の3週間後である12月27日に死去し(享年51歳)、馬場さんとタッグを組んだアンドレ選手も翌年1月27日に死去したため(享年46歳)、大熊選手とアンドレ選手の2人にとって生涯最後の試合を偶然にも観戦したことになりました。

武道館の2階席最上段は座席の傾斜が急で、すぐ背後には武道館の屋根。高所恐怖症の私はちょっと怖かった。リングもすごく小さく見えました。

自らの試合を終えた馬場さんは放送席で解説をしており、武道館の最上段からでも馬場さんの姿を確認することができました。とにかく馬場さんはデカかった。

一緒に行った女の子も「馬場さん存在感あるねー!」と大喜び。

初めて生で見るプロレスの試合はとても楽しかったです。会場の熱気がスゴいのなんのって。

全盛期の馬場さんを見てみたかった

私が本格的にプロレスを好きになった頃、残念ながら馬場さんは全盛期を過ぎていました。

前述した通り新日派だったこともあり、全盛期の馬場さんを私はリアルタイムで見ていません。「昔の映像」としては見たことがある32文砲(いわゆるドロップキック)もリアルタイムでは見たことがなかった。

私よりも世代が上のプロレスファンは、まだ猪木さんとタッグを組んでいた頃の馬場さんを「本当に強かったぞ」と嬉しそうに語ります。

私にとっての馬場さんは、放送席で辛口解説をしたり、クイズ番組で珍解答してニコニコしてる人でした。

馬場さん、頭を撫でてくれてありがとうございました。

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