初代タイガーマスクのライバルとして脚光を浴びる
佐山聡がイギリスでの海外修行から急きょ帰国を命じられ、タイガーマスク(初代)として日本デビューを果たしたのが1981年4月。その対戦相手がダイナマイト・キッドでした。
ただ、キッドが新日本プロレスに登場するようになったのは1980年からだそうで、当時ジュニアヘビー級を牽引していた藤波辰巳(現:藤波辰爾)とも闘ってたんだそうです。見てたはずだけど全然記憶にない。パンチパーマだった若手時代の長州力は記憶にあるんだけども。
タイガーマスクとキッドのデビュー戦があまりにもスゴかった。メキシコのルチャリブレなんて見たこともなかった当時の子供たちにとって二人の空中技や立体的な応酬、そして何よりもスピード感が度肝を抜くものばかり。私と同世代のプロレスファンは、おそらく大半がタイガーマスクのデビュー戦でスイッチが入った人ばかりじゃないですかね。
その後もタイガーとキッドは名勝負を連発。長州が藤波に反旗を翻して抗争を繰り広げるタイミングも重なって、日本でプロレスが一大ブームを巻き起こします。
何の前触れもなかった全日本移籍
タイガーマスクが新日本を退団し、次のジュニアヘビー級エースとしてコブラというマスクマンレスラー(正体はジョージ高野)が担ぎ出されるのですが、実質的にはキッドと、彼のいとこであるデイビーボーイ・スミスの二人が新日本ジュニアを引っ張ってた状態。
ところが1984年、キッドとスミスは全日本プロレスに電撃移籍。
新日本のタッグリーグ戦に出場すると発表されてたキッド&スミスが、何の前触れもなく、いきなり全日本の中継に登場したんですから、視聴者はビックリ仰天ですよ。週刊プロレスなどのメディアにも全然出てなかった話なので。
新日本のジュニアで闘ってた頃はキッドもスミスも長髪だったのが、全日本に初登場したキッドはタイガーマスクのデビュー戦を戦った時の容姿を思い出させる丸坊主。スミスも同じく頭を丸め、衝撃の移籍初戦はキッドのダイビングヘッドで快勝。
リプレイで再生されたキッドのダイブ。その飛距離や角度が、丸坊主で精悍さを増した表情と相まって、やっぱりカッコええなあ、と惚れ惚れしたのを思い出します。
次のシリーズである世界最強タッグ戦に初参戦したキッド・スミス組ですが、新日本ではジュニアヘビー級が主戦場だったせいもあって、やっぱりサイズが小さく感じてならない。
相手チームは、ハンセン&ブロディ組、鶴田&天龍組、ドリー&テリーのザ・ファンクス、ハーリー・レイス&ニック・ボックウィンクルの「NWA・AWA帝王コンビ」、馬場&ラッシャー木村組(まだ木村が笑いに走っておらず、それどころか馬場さんを敵視してた頃)、さらにはワンマン・ギャングという巨漢レスラーもいたし、タイガー・ジェット・シンもいるという、スーパーヘビー級や一流どころばかり。
身長のないキッドはどうしても小さく見えるのですが、上背がそこそこあり、筋肉増量中だったスミスは見た目もパワーも他のレスラーと遜色なくて、新日本時代に「スミスはジュニアとしては反則」と解説されてたのが大げさどころか、むしろ真実だったことが証明された形となってました。スミスは当時、余裕で体重100kg超えてたはず。
スーパーヘビーとの対戦ではどうしても分が悪かったキッド&スミスですが、中軽量級の相手には実力を発揮し、マレンコ兄弟とは後楽園ホールでメディアやファンに大絶賛された名勝負を繰り広げました。マレンコ兄弟を認めていなかった馬場さんは解説で全然評価してなかったけども。
運命の分かれ道となったWWF参戦
アメリカではNWAという団体が圧倒的な勢力を誇ってたのですが、やがてWWF(=現在のWWE)が台頭。ニューヨーク周辺の地方団体だったWWFが全米各地に勢力を拡大し始めます。
アメリカと日本の関係だと、新日本がWWF、全日本がNWAと提携していたため、新日本の猪木や藤波などはWWFで試合もしたし、WWFのベルトも巻いたことがあります(猪木も藤波も後にWWE殿堂入りしました)。一方でNWAのタイトルには長いこと挑戦すらさせてもらえませんでした。
キッド&スミスは当時WWFに所属していながら全日本に参戦してたという珍しいパターンなのですが、やがて全米を完全制圧するため本気になったWWFは、所属選手を囲い込む形をとって日本への遠征を許可しなくなります。
新日本の常連だったホーガンやアンドレもWWF専属扱いとなって以降は日本に全く来なくなり、キッド&スミスも全日本ではなくWWFが主戦場になってしまいます。
WWFで活躍していた頃、キッド&スミスは「ブリティッシュ・ブルドッグス」というタッグチーム名を与えられ、ギミックとしてリング上に犬(=ブルドッグ)を連れてくるようになります。
また、この頃からキッドもスミスも体格が異様に大きくなり、あの小さかったキッドでさえ腕や太もも、首回りの筋肉がパンパンに盛り上がったマッチョレスラーになってしまいます。誰が見ても明らかにステロイド(=筋肉増強剤)をやっちゃったな、というのが明白。後に本人も薬の使用を認めています。
1986年にキッドは椎間板を負傷し長期欠場。いったんスミスと共にWWFを離脱し、全日本プロレスに復帰するのですが、突如スミスはキッドとのコンビを解消し、シングルプレイヤーとしてWWFと単独契約。スミスは「ブリティッシュ・ブルドッグ」という新リングネームでWWFに単独参戦するようになります。
この時の「だまし討ち」のような別離に腹を立てたキッドは以降、スミスと一度も会わなかったそうです。全日本に残ったキッドは新パートナーとしてジョニー・スミスを抜擢し、ニュー・ブリティッシュ・ブルドッグスを結成しますが、それほど大きなインパクトは残せず。
ステロイドの副作用や椎間板損傷の後遺症などにより、WWFの一時期はマッチョ体型だったキッドも目に見えて痩せ衰え、全日本での後期などは両脚が信じられないほど細くなってることに愕然とさせられました。スピードと技のキレでカバーしてた感じ。
1991年12月、全日本の世界最強タッグ最終戦、日本武道館大会でキッドは引退を発表します。試合直前、リングアナウンサーがキッドの引退を突然発表し、会場のファンも、そしてテレビの前の私も「ええええ!」「うそー!」と叫んだ。
試合を終えて選手たちから胴上げされ、現役生活に別れを告げたキッドでしたが、その後に現役復帰したらしく、日本でもみちのくプロレスで試合をしたそうです。私は1991年12月、引退試合以降のキッドは見てないし、それほど詳しく知りません。
筋肉増強剤と共に怖い、危険技の連続使用
キッドと別れてシングルプレイヤーの道を選んだデイビーボーイ・スミスはWWFやWCWでトップレスラーとして活躍しますが、筋肉増強剤の副作用が影響したか、2002年に心臓発作で亡くなっています。39歳の若さでした。
一方、スミスよりも早い時期に筋肉増強剤の悪影響が表面化していたキッドは、WWF時代に重傷を負った椎間板の状態がおもわしくなく、さらには長年の酷使で痛めた頸椎(=首)の状態も悪く、引退後は車椅子生活となった、との報道を目にしました。
2016年、初代タイガーマスクだった佐山聡を特集したNHKの「アナザーストーリーズ」という番組にダイナマイト・キッドが登場。脳卒中で体調を崩し、介護施設で生活していたキッドは、「最大のライバルはタイガーマスクだった」と回想。体調回復を願いキッドを激励した佐山聡からのビデオレターを温和な表情で眺めていました。
2018年12月5日、ダイナマイト・キッドは死去。この日は彼の60歳の誕生日でもありました。