プロレスごっこはいつも「キングコング」
今回紹介するのは、1980年代の日本プロレスで最強外国人として君臨していたブルーザー・ブロディ。「キングコング」「超獣」などと称されていました。
彼のフィニッシュ・ムーブは「キングコング・ニードロップ」や「キングコング・ギロチン」など、キングコングという冠の付くものが多かった。
独特の雄叫びをあげながらチェーンを振り回してくる入場シーン。毛皮のフード付きシューズにモジャモジャの髪形という独特のスタイル。一度見たら忘れられない選手でした。
中学生の頃、昼休憩になると友達と体育館でプロレスごっこをして遊んでました。当時はプロレスブームが始まった頃だったから、全国どこでも同じような光景が繰り広げられたんじゃないかな。
各人が自分の好きなレスラーのフィニッシュ・ムーブをマネして(あまり危険にならない程度に)技を出してレスラー気分に浸るのですが、私はもっぱら「キングコング・ニードロップ」ばかりやってました。そのくらいブロディが好きだった。
日本のプロレス界とも縁が深かった
ブロディは大学時代にアメフトで活躍。チームメイトには「不沈艦」スタン・ハンセンがいました。
その後、プロのアメフトチームに入団するもヒザを怪我して退団。新聞記者に転身したところを「鉄の爪」フリッツ・フォン・エリックに見出されてプロレスデビューします。
日本にはジャイアント馬場率いる全日本プロレスに参戦。後に新日本プロレスから全日本に電撃移籍した旧友スタン・ハンセンと「超獣タッグ」を結成。全日本で旋風を巻き起こします。
しかし1985年、突如ブロディは新日本に電撃移籍(猪木が引き抜いたと言われてます)。猪木を始め新日本の主力と名勝負を繰り広げたものの、試合出場ボイコットなどのトラブルを連発し、永久追放処分に。
その後しばらく日本には来日出来なかったのですが、1987年に全日本へ電撃復帰。年末の最強タッグでは盟友ハンセンと初めて「敵同士」として闘いました。
1988年、遠征先のプエルトリコでプロモーターのカルロス・コロンとトラブルになり、コロンを支持するレスラーに控室にて腹をナイフで刺され急死。享年42歳でした。
長州を相手にしなかった
ブロディで一つ、いまも記憶に残ってる鮮烈なシーンがあります。
1985年3月、完成したばかりの両国国技館で全日本プロレスが初めてプロレス興行を開催。この試合は日本テレビでゴールデンタイムに生中継されました。
この日の目玉は、なんと言ってもロード・ウォリアーズの初登場。いきなり当時のエースコンビ、鶴田&天龍とのタッグ選手権が組まれていました。この話は以前にエントリーで書いています。
ホーク・ウォリアー:フェイスペイントを継いでいく【レスラー列伝#3】
アメリカだけでなく日本でも数多くのタッグ王座を獲得した名タッグチーム「ロード・ウォリアーズ」の一人、ホーク・ウォリアーについて語ります。
ロード・ウォリアーズの試合は「ダブルメインエベント」として組まれていました。
通常はその日最もプッシュする試合を「メインイベント(エベント)」と打ち出してチケット展開するのが常だったのですが、大注目だったロード・ウォリアーズの試合なのに「ダブルメインエベント」とした理由は、ブロディでした。
それまでエース外国人として全日本で活躍していたブロディが、初来日の若手どもの脇役で納得する訳がない。
全日本側がプライドの高いブロディに配慮したのか、それともブロディが試合ボイコットを匂わせ脅したのかは分かりませんが、いずれにせよブロディの試合は「ダブルメインエベント」のもう1試合として組まれました。
対戦相手は、新日本で大旋風を巻き起こした後、全日本にチームごと電撃移籍した「維新軍」のボス、長州力。
維新軍が全日本に移籍してすぐの大会だったので、長州も大好きだった私はブロディとの対戦に心躍ってました。
しかしブロディは、長州を相手にしなかった。ほとんど長州の流れに付き合ってない(後半から少し付き合い始めてますが)。
入場シーンから異様だったんですよ。いつもチェーンを振り回して雄叫びをあげながら入場するのは変わらなかったんですが、観客への威嚇がいつにも増してスゴかった。
ロード・ウォリアーズよりも前の試合に追いやられた腹立たしさ。ゴールデンタイムの生中継という注目度の高い機会で大量に放出されたアドレナリン。そして移籍したばかりの超人気者・長州への対抗心。いろんなものを含めての大暴れだったのかな。
試合後、ブロディは全日本の主力である馬場や鶴田の名前を挙げて「彼らは強い」と称賛する一方、長州のことは「しょっぱい(試合が下手、みたいなニュアンス)」とケナしてました。
この両国大会の直後、ブロディは新日本に移籍してしまいます。長州との一戦の時点で既に移籍を決めていたのか、それとも全日本での扱いに不満を感じて両国大会を機に見切りをつけたのかは分かりません。
本国アメリカではNWAやWWF(現WWE)などの大きな団体にはほとんど出場せず、ローカルな中小団体を中心に活躍したため、「インディペンデントの救世主」などと呼ばれたりもしました。
しかし一方ではギャラや扱いなどを巡って団体運営者と度々衝突しており、NWAなどの団体は使いたくても使えないレスラーだったという話も聞きます。
最終的にプエルトリコで悲惨な最期を遂げてしまったのも、プロモーターとの衝突が原因でした。
私は長いこと週刊プロレスを購読していましたが、初めて買った週刊プロレスはブロディの追悼特集だった。
好きだった外国人レスラーのトップ5に私は間違いなくブロディを入れます。