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三沢光晴:虎から超世代、そして方舟へ【レスラー列伝#7】

2012年10月24日

タイガーマスク時代は大変だったみたい

今回紹介するのは、おそらくプロレスファンじゃない方々でも名前を知ってる人が多いんじゃないかという、三沢光晴。

プロレス界の砦」などと称されてましたね。プロレスの至宝、宝とも呼ばれてたし、武藤敬司と並ぶ天才とも言われてました。

バラエティ番組ではただのエロいオッサンでしたけど。

若手時代、越中詩郎と共にメキシコで長期修行している時にジャイアント馬場から「2代目タイガーマスク」への変身を命じられ緊急帰国。1984年の田園コロシアム大会に登場することとなりました。

当時、私は全日本より新日本を熱心に観てたせいもあり、三沢光晴という若手選手を知らなかった(でもなぜか越中は知ってた)。

田園コロシアムの「デビュー戦」はリアルタイムで観ましたが、どうしても初代タイガーマスク(=佐山聡)と比較しちゃいました。「動きが遅いな~」とか思っちゃう。

そうじゃないんですよね。三沢だって十分速い。佐山が尋常じゃないほど速すぎたってだけで。

一部には「もしかして佐山(当時はUWFという団体にいた)が全日本に移籍するんじゃねえか!」ってウワサも当時出てました。タイガーマスクとしてまた空中殺法を復活させるんじゃねえかって。実は私もちょっとそれ期待してた。

だけど登場した2代目(=三沢)の背が高いものだから、なんだーやっぱり佐山じゃないのかーってガッカリした人もいたんじゃないかな。かと思えば正体を知ってる人も多かったみたいで。

2代目タイガーマスク、デビュー戦の映像を観てると、「みっさーわ!」って大合唱してます。みんなナゼ知ってたんだろ。

ヘビー級転向後、しばらくは苦しかった

ヘビー級に転向してもしばらくはトップどころというより中堅の位置で耐えるしかなかった2代目タイガー。

1990年、アメリカの人気団体WWF(現在のWWE)が日本で「日米レスリングサミット」という大会を開催し、そこに全日本と新日本の選手も参戦しました。いま見返してみるとスゴイ試合だらけの画期的な大会。

その中で三沢タイガーは当時WWFの中堅どころだったブレット・ハートという選手と対戦し、20分闘って時間切れ引き分けという、他の試合が盛り上がりまくった中で結果だけ見ると平凡な試合をしてます。

でも中には「この試合、面白かったよー!」って人もいましたし、後にアメリカで絶大な人気を得たブレット「ヒットマン」ハートと互角の勝負だったというのは何気にスゴイことだったのかもしれません。分からんけど。

その後、三沢タイガーを中心に若手選手5人が「これからは自分たちが全日本を引っ張る」という決意で「決起軍」というチームを結成しますが、なんともショッパイ試合が続き、遂には馬場さんから怒られて決起軍は解散。

前述の通りヒザの手術で長期離脱したりと、三沢には苦しい日々が続きました。

マスクと決別した三沢を時代が支持した

転機となったのは、大手メガネチェーンの「メガネスーパー」がスポンサーとなり旗揚げされた新団体「SWS」に全日本や新日本の主力級選手が次々と移籍、というか引き抜かれたとき。

全日本からは天龍をはじめ、谷津、カブキの主力級や、冬木、高野、高木、石川といった中堅・若手クラスもゴッソリと離脱。全日本は崩壊の危機に直面しました。

絶対的存在だった天龍が全日本を辞めた、その衝撃が冷めやらない中で行われた試合中、三沢はタイガーマスクの覆面を脱ぎ、観客席に向かって放り投げることで様々な呪縛から解き放たれました。

鶴田との最初のシングルで勝利し、川田たちと超世代軍を結成し、三沢はプロレス新世代の旗手と称されるようになります。

馬場さん、そしてエース鶴田の亡きあとは全日本プロレスの社長に就任したものの、馬場夫人と対立し辞任。そのまま全日本を離脱し、「プロレスリング・ノア」を旗揚げ。

新日本の同世代で共にブームをけん引した「闘魂三銃士」の武藤・蝶野・橋本とも対戦することが出来たし(蝶野以外はタッグ)、暴走王・小川との初対戦では三沢の強さと凄みが存分に発揮されたと絶賛されてました。

2009年6月、三沢は試合中にバックドロップを受け意識を失い、病院に搬送されましたが急死。享年46歳でした。

三沢で忘れられないエピソード

今でもそうなんですけどね。プロレスもそうだし、サッカーも野球も、とにかくスポーツは何でもそうなのですが、試合結果を知った後でテレビを観るのが大嫌いなんです。

なので、例えばサッカーの代表戦が深夜にあって、夜更かし出来ないから録画しておいた時など、朝イチでTwitterを見たりヤフーのトップページを見てしまうと結果が分かってしまうので、極力見ません。

(でも時々、試合のことを忘れてTwitterを見てアチャーと失敗します)

三沢が初めて三冠王座に挑戦した時もそうでした。相手は当時チャンピオンだったスタン・ハンセン。確かその時、まだハンセンにシングルで勝ったことすらなかったんじゃないかな。

当時、全日本プロレスの試合放送は1週間遅れ。その1週間の間に週刊プロレスは増刊号を発売するんです。

週刊プロレスは増刊号も全て購入してたのですが、増刊号のイヤなところは、表紙で全て分かっちゃう時がある。試合結果がネタバレしてる。

なので、テレビ放送が終わるまで増刊号は買わないと決めてました。いつも買ってる本屋にも近付かず、コンビニでも本の売り場には近付かない。増刊号の表紙で結果が分かったら、もうその瞬間に興味喪失ですから。

しかし。

ようやく次の日が三冠戦の放送という日の昼、某スーパーに行ったんです。そこには書店もあるのですが、週刊プロレスが売られてるのを見たことが一度もなかった。なので取り扱ってない店なんだなと思ってました。

完全に油断してました

その書店に立ち寄ったわけではなく、ただ前を歩いてただけでした。それで何も考えずに書店の本棚(週刊誌などが置かれてある通路に面した棚)を一瞬チラッと見たんです。

時間にしてたぶん1秒も見てないんですよ。ほんの一瞬。なのに、私の頭の中にパッと入ってきたんです。増刊号の表紙の映像が。

その一瞬で、増刊号らしき本の表紙に書かれてあった4つの文字が、私の意志に反してシッカリと脳内にインプットされてしまった。

もう本気で泣きそうでした。テレビ放送まで24時間切った状態まで増刊号の購入をずっとガマンしてたのに。よりによって、なぜその書店に増刊号が…。

その4文字。なんて書いてたと思います?

 

 

三沢散る

 

って書いてあった。たった4文字なんですけどね。それでも私を絶望のどん底に突き落とす強烈な破壊力でした。

試合はテレビで観ましたよ。観ましたけどね。どうせ観るなら「三沢ガンバレ!ベルト取ってくれ!」と祈るような気持ちで観たいじゃないですか。「どうせラリアットで三沢負けるんでしょ」と考えながら観ても面白くないし。

それ以来、某スーパーの書店には二度と近付かなくなりました。

印象的なムーブ・ベスト3

★第1位:エルボー

三沢といえばエルボー。タイガーマスク時代にはそれほど前面に出ておらず、マスクを脱いでから代名詞となった三沢の打撃技。

三冠戦などの大試合でフィニッシュとしてランニング・エルボーを使うこともあったし、途中からグルッと一回転してフェイント気味にエルボーする時もありましたね。ケリー・フォン・エリックのディスカス・パンチみたいな。

★第2位:場外花道からの投げっぱなしタイガースープレックス

三沢と小橋のGHCタイトル戦でしたね。場所はドーム? 武道館?

場外の特設花道での攻防で、三沢が小橋を投げっぱなし式のタイガースープレックスで下に投げ落としたシーン。観た瞬間に背筋が凍りました。これ冗談抜きで死ぬぞ、と思った。

小橋のフィニッシュ「バーニングハンマー」も、これ以上ないほどエゲツナイ角度で落としてました。三沢は受け身の名手として有名でしたけど、それでもこんな技を喰らい続けたら首がマトモではいられないですよ。

★第3位:タイガードライバー ’91

私、タイガードライバーという技があんまり好きじゃない。あれってそんなに効くのか?といつも思ってました。

しかし「’91」は別です。あれはエゲツナイw

三冠戦で川田に出した「’91」もインパクトありましたが、最初に出した相手は田上でした。初公開だったのもあって、観た瞬間は「三沢!アンタやりすぎ!」と本気で思った。

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