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母校の校舎が消えていくというのは、とても寂しいものである

2012年8月28日

母校は遠くなりにけり


classroom by black vanilla

皆さんは自分が卒業した「母校」に時々は行っているだろうか。今も近所に住んでいるならともかく、距離的に離れてしまった母校とはどうしても精神的な距離もできてしまい、なかなか立ち寄る機会を得られないのが現実ではないだろうか。

そんな私は人並みに小中高大と4つの学校に通い、そして卒業した。つまり4つの母校がある。

その4つの母校も、今となっては様々である。ある学校は消滅し、ある学校は場所を変え、そしてある学校は名前を変えてしまった。

今はどうなっているのかも分からない小学校

小学生の6年間は和歌山で過ごした。全校生徒が100名もいない過疎地の、それでいて校舎は建て替えられたばかりで新しい小学校。

鳥取から大阪に引っ越して会得した鳥取弁9割大阪弁1割の方言は、和歌山の地で子供たちに「ヘンな言葉」と散々馬鹿にされた。

誰一人友達もいない中で始まった新1年生。でも人数の少ない学校だからすぐ友達はできた。何もない大自然の中で毎日クタクタになるまで走り回った日々。

小学校の卒業式から1週間後には再び鳥取に転居することが決まっていた。級友達は全員が同じ中学に進学する中、自分一人だけが違う場所に行ってしまう。また自分一人だけ。

6年生の担任教師は、卒業式が終わって最後のホームルームで笑顔を作りながら去り行く教え子たちに思い出や激励の言葉を贈り続けた。そして最後に、「お前たちは4月からも同じ学校だけど、一人だけ遠く離れてしまう彼のことも友達だということを忘れないでください」と告げ、突然嗚咽しながら泣き始めた。

自分自身の堪えていたものも崩壊してしまって寂しさに襲われ、担任教師につられて私も号泣してしまった。それにつられたか、級友のみんなも泣いていた。

卒業式は旅立ちの時と言うけれど、和歌山に行く機会が全くないのもあり、卒業式を最後に母校の小学校を訪れてはいない

建て替えられて新しかった校舎も、あれから30年経った現在はさすがに再び古くなっていることだろう。記憶から消えつつある母校の風景を頭に思い描くこともあるが、上手く記憶を形成することは出来ない。

過疎地だったから生徒数が足らず、もしかすると廃校になってるのではなかろうかと心配になりネットで検索したら、幸い現在も小学校があることは判った。

【追記】卒業から30年以上が経った2014年2月、プライベート旅行で久々に和歌山を訪問し、母校の小学校も訪れてきました。忘れていた記憶が蘇り涙が出ました。

嬉しい思い出は心に刻み、哀しい思い出は川に流す、第二の故郷散策

今回の和歌山旅行で一番の目的は、かつて自分が住んでいた街を訪れること。30年以上が経ち、ほとんど記憶が薄れていた街を久々に歩き、少しずつ記憶が蘇ってきました。

消滅してしまった中学校

和歌山から鳥取に転居し、再び友達が誰一人いない未知の地で始まった中学生活。

小学校に入学した時は鳥取弁を馬鹿にされたが、中学入学時はすっかり身に付いていた関西弁のせいで皆から「怖い」と恐れられた。関西弁を喋っているという理由だけで「あいつ生意気だ」と上級生から体育館裏に呼び出されたこともある(何もされなかったが)。

中学校の校舎は恐ろしいほど古く、綺麗な校舎で小学校6年間を過ごした自分にとっては衝撃だった。

ちょうど校内暴力が全国的に問題視されていた頃で、うちの中学は全ての男子トイレの入口ドアが外されていた。何度設置しても不良どもが蹴り壊してしまうので教師たちがあきらめたのだ。

そのあおりを受けて男子生徒は廊下から丸見えの状態で用を足さねばならず、思春期の女子生徒が中を覗いて大喜びするのは思春期の男にとってツラかった。

卒業してから数年後に母校の中学は廃校となり、2つの新たな中学に分割された。2つの中学は元々の場所から遠く離れた位置に建設され、どちらも元々の中学の名称を継がなかった。したがって私の母校は完全に地球から消滅した

現在その中学の跡地には新たな名称の小学校ができている。もちろん校舎も綺麗である。

移転してしまった高校

高校は自宅から自転車で20分ほどの距離にあった。

小学校そして中学校と、入学時には「知ってる人が誰一人いない」という状況だったが、高校入学時は逆に同じ中学出身の生徒が学年で最も多かった。同じクラスでも自分と同じ中学出身の生徒の割合が最も多く、周囲に知人ばかりというのは精神的にとても楽だった。

高校生になったら自分を変えたいと思っていたので、最初のホームルームで自ら学級委員長に立候補した。特に目立つ存在でもなかった私が手を挙げて立候補した時に中学時代の友人たちは驚いていたが、応援もしてくれた。

1年間に前期と後期、3年間だと計6期ある高校生活のうち、4期で学級委員長を務めた。委員長として上手くやり遂げられたかは分からないし、担任教師にも怒られてばかりだったが、それでも「クラスをまとめる」という役割を3年間の半分以上務めたことは大きな経験と自信を身体に植え付けてくれた。あの時に手を挙げて良かったと今でも思っている。

母校の高校も中学同様に校舎が異様に古かった。校庭は異様に狭く、陸上トラック1周分も取れない広さのグラウンドで毎年窮屈な体育祭や球技大会をこなした。

「鳥取県内で最も敷地が狭い高校」と揶揄された母校は、私が卒業してすぐ移転した

山を切り開いて建設された新校舎は「山陰で最も広大な面積を誇る高校」と形容されるようになった。移転先の校舎を見る度に今でも結構本気で腹が立つ。

私の母校だった高校の旧校舎は移転後すぐ取り壊され、学校とは何の関係もない別の建物として生まれ変わっている。随分前に一度だけ母校の跡地を見に行ったことがあるものの、そこが何に生まれ変わったのかはよく分からなかった。

名前が変わった大学

中学高校の6年間を鳥取で過ごし、福岡県にやって来た。北九州の大学に入学。またしても友達が誰一人いないスタートとなったが(大学なんてどこもそうだろうけど)、慣れてたので何も困らなかった。入学式当日に友達はすぐできたし、何よりも念願の一人暮らしが嬉しくてたまらなかった。

大学の校舎はこれまた古かった。それにも慣れてたので特に問題はなかった。

勉強は全然真面目にせず、友達と遊ぶこと、バンドを組んで音楽活動を楽しむこと、そして北九州市や福岡市という大都会を体感することにばかり熱心になっていた。

そのことは今でも激しく後悔している。もっと真面目に勉強しておけば良かった。せめて1割でも真剣に学んでいたら、今の人生は変わっていたと確信している。冗談でも何でもなく、出来ることならもう1度大学に入って勉強をし直したいと本気で思っている。

大学の卒業式は、4年間共に遊びまくった友人たちと楽しく過ごした。これで友人たちとの学生生活が終わってしまう、大学を卒業してしまう、そして春には社会人になるんだという実感が全く湧かなかった。

夜になるまで卒業パーティーで大騒ぎして、何も食べてなかったので異様な空腹感に襲われ、耐えられなくなり友人たちと小倉の繁華街に繰り出した。適当に見つけた小さな焼き鳥屋に入り、手当たり次第に焼き鳥を注文して食べ尽くした。あんなに美味しい焼き鳥は生まれて初めてだった。

焼き鳥を頬張りながら、私もそして友人たちも、心のどこかで「これで宴は終わり」という卒業の実感が芽生え始めていたように思う。それでも誰一人、その話は出さなかった。

下らない世間話で大笑いして、店を出てから「また明日」という感じで別れ、我々の大学生活は終わった。

母校の大学は現在も同じ場所にある。しかし大学自体の名称が我々の在籍時とは変わってしまった。学部構成も変わり、何を学ぶのかよく分からない名称の新しい学部が増えている。

キャンパス内には新しい建物が増え始めており、昔からある古い建物もリフォームが進んでいる。名前だけでなく外観も徐々に我々の頃とは変化しつつある。

まとめ

校舎という意味でいえば、中学と高校は消滅してしまっている。小学校は遠すぎて確認のしようがない。

母校が「昔ここにあった」という場所で思いを巡らせるというのは何とも寂しいものである。自分の青春を一部だけ削り取られてしまった気分になる。

現在も北九州に住んでいるので、大学だけは比較的近いのだけど、それでも卒業してから数回ほどしか行ったことがない。

記憶は時間と共に薄れていく。母校に行ける機会があるのなら、その思い出が鮮明なうちに訪れておいたほうがいい。母校の幾つかが消えてしまった身として、痛いほどそう感じる。

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