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飯塚・嘉穂劇場を見学し、芸を愛する人々の心と災害復興の思いに触れる

2012年3月2日

ウォーキング大会の途中で寄り道してきた

2月26日(日)に、ウォーキング大会で飯塚市内を歩いてきたのだけど、ウォーキングコース内に嘉穂劇場が含まれていた。

嘉穂劇場は折り返し地点となっていて、大半の参加者は劇場の中に入ることなくUターンして次の目的地へと向かっていた。

私も当初はそのつもりだった。これまでもウォーキングコース中、有料施設には立ち寄っていなかったから。

しかし、初めて訪れた嘉穂劇場を眺めているうちに、いろんな思いが込み上げてきて、中を見たくなった。

度々の自然災害にも負けなかった嘉穂劇場

嘉穂劇場は大正10年(1921年)の6月に、大阪市中央区にあった「中座(なかざ)」という劇場をモデルにして、同じ「中座」という名称で建造されたのが始まり。もう90年も前になるらしい。

(ちなみに大阪の中座は1999年に閉館されたのだとか)

飯塚の中座は翌年の大正11年(1922年)1月にオープン。しかし6年後の昭和3年(1928年)5月、火災のため全焼。

再建作業が進み、ちょうど一年後の昭和4年(1929年)5月に再オープンしたのだが、翌年の昭和5年(1930年)7月に台風が襲来し建物が倒壊してしまった。

この被害により中座は解散となるのだが、新しい経営者が再建を決意し、昭和6年(1931年)2月に落成式が行われ、再度の船出となった。

ここから順調に歴史を積み重ねていくのだけど、平成15年(2003年)7月19日の九州北部豪雨災害により、嘉穂劇場も壊滅的な被害を受けてしまった。

嘉穂劇場のサイトに、水害発生時の写真がアップされていた。

http://www.kahogekijyo.com/suigai/suigai.html

↑2003年の豪雨災害は私自身も経験したし(私の自宅に被害はなかった)、各地の被害に関してニュースとしては知ってたけど、水没した嘉穂劇場の写真を見て絶句してしまった。ここまでだったとは。

水害の直後は新聞やニュースで「嘉穂劇場、閉鎖の可能性」と報じられていた。

しかし歴史ある嘉穂劇場を救おうと、俳優の津川雅彦が発起人となり、呼び掛けに賛同した多くの芸能人(明石家さんま、中村玉緒、長門裕之、中村勘九郎(現在の勘三郎)、西田敏行、緒形拳など)が嘉穂劇場に集い、復旧チャリティーイベントを開催してくれた。

飯塚市内の各商店街でもチャリティーオークションが開催され、田村正和や木村拓哉ら有名人の私物も提供してもらえたのだそうだ。他にも全国各地からも義援金が寄せられ、そのおかげで嘉穂劇場は復旧作業のめどが立ち、翌年平成16年(2004年)の9月、多くの善意の結晶として嘉穂劇場は復興した。

嘉穂劇場には一度も行ったことがなかったけど、水害や復旧イベントのニュースはチェックしていたから、劇場が復興したというニュースを聞いた時は本当に胸が熱くなった。

とても風情のある劇場内

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↑嘉穂劇場をこの目で見たのは今回が初めて。今まで「飯塚のどこにあるのか」すら知らなかった。

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↑約1世紀もの間で蓄積された、多くの人々の汗と笑いと涙。そして水害から立ち直る際に込められた全国からの愛情。そんなことを考えると感無量になってしまった。

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↑チケットを購入し、中へ入る。

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↑入口すぐ右側にひな人形。嘉穂劇場も飯塚市内の「雛(ひいな)まつり」会場の一つとなっている。

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↑入口前の売店。とても風情がある。

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↑1階客席。おお~、こんな感じになってるのか~。

それほど広い客席というわけではないので、最後列からステージを見ても「遠すぎて見えない」という感じはしない。

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↑客席の横にある客席通路。

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↑何やら地下へ続く階段がある。このスペースは「鳥屋(とや)」と言って、舞台の袖で出番を待つ時の待機部屋みたいな感じらしい。

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めちゃめちゃ狭い階段の入口。

大きな衣装を着た出演者は、とてもじゃないけど通れない。たぶん服を着てない状態で移動して、階段を上って鳥屋に来てから大きな衣装などに着替えるのかもしれない。

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↑うひゃー! こりゃ狭いわ。しかも天井が低い低い!

私は身長が183センチなんだけど、ここの地下はおそらく高さ140~150センチくらいかな? なので前傾しないと歩けない。

まだ歌舞伎はナマで一度も見たことないんだけど、中村勘三郎が大好きで、彼を特集した番組はいつもテレビで観ている。二人のお子さん(6代目勘九郎と2代目七之助)がまだ幼かった頃も、そして初舞台の特集番組も観た。

勘三郎の舞台裏を映すシーンで、いったん舞台から消えて地下通路を別の衣装やカツラに着替えながら全速力で猛ダッシュして、舞台上の別の場所にイリュージョンのようにパッと現れるというのを何度も観て、スゲー!といつも感動する。

それが頭の中にあったのだけど、嘉穂劇場の地下はさすがにそれ無理だな。この天井の低さだと走るのが大変そう。

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↑通路の途中にあった「スッポン」という説明板。「幽霊や妖怪が花道に登場する」と書いてあるけど、何のことやら分からない。

調べてみると、「スッポン」とは地下の舞台下から舞台の上へ役者を上げるための小さな穴、そして昇降装置のことを言うんだって。同じ用途で「迫り(せり)」というのもあるけれど、「せり」は本舞台の下に設置されていて、「スッポン」は花道に設置されているそうだ。

ちなみに歌舞伎のルールでは、スッポンを使って登場する役柄は「人間ではないもの」という約束事があるんだって。つまり、妖怪とか幽霊とか、そういう意味での人間じゃないもの。花道の下からヒョイと登場した役者がいたら、それは人間ではなく妖怪や幽霊や亡くなった人の設定なんだよ、と解釈すればいいんだって。説明板の解説はそういうことだったのか。

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↑こちらがもう一方の「迫り(せり)」。8人でかつぐ、という説明板からも分かる通り、「スッポン」よりも広く大きな昇降装置となっている。

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↑おそらくここがセンターステージの真下なのかな。円形でクルクル回転するステージが天井部にあり、下で支える柱も円状になっている。ここも天井が低すぎて、正座状態で撮影してた。

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↑「力棒」。ステージを回転させるためにこの棒を押すらしいのだけど、今も手動で回してるのだろうか。 

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↑演劇用語では舞台下を意味する「奈落(ならく)」。本来は「地獄」という意味で、絶望的な状況になった時などに「奈落に落ちた」と表現するのも「地獄」と同義だから。

昔の劇場地下は、狭い・汚い・薄暗い・湿気が多い・暑い・寒いと、労働環境としては最悪で地獄のような場所だったことから「奈落」と名付けられたんだって。

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↑そんな地獄のような奈落に、なぜかワハハ本舗の寄せ書き。

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↑よく見ると他にも舞台下通路の壁に様々な昔の宣材が貼られている。これは昭和13年の舞台チラシみたい。

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↑田端義夫は聞いたことあるぞ。ギターで弾き語りする人だよね。

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↑なんと、ボクシングvs柔道の異種格闘技戦なんてものまで嘉穂劇場は開催してたのか! 「世紀の血闘」だって。前座で女子プロレスまでやってる。

ちなみに出場した選手の名前を全部見たけど知ってる人は一人もいなかった。

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↑ひととおり奈落の底を楽しんだので、さっき下りた階段に移動し地上に戻ろうとしたのだが、これが狭すぎて大変。頭が出た際に背中が階段の穴の端に引っ掛かって出られなくなり、本気で焦った

ステージも客席も開放されている

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↑観客席に戻ってきた。ステージに行ってみよう。

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↑ステージ上では市内のひな人形イベントの一環として、ひな人形の扮装をして記念撮影の出来るひな段が設置されていた。ステージの上に丸い部分がある。これがさっき地下で見た「回転するところ」なんだね。

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↑ステージの上から見た客席。

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↑それほど広くはないが2階席もある。写真は正面しか撮っていないが、左右両サイドにも2階席は設けられている。

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↑升席の最前列。座布団が4つあるので、最高4人で1つの升に入れるということなのかな。

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↑仮花道。観客席の真ん中を突っ切って後方から舞台へと役者が通る花道のことを「本花道」と呼ぶらしいのだけど、それとは別に上の写真のような、客席の横に設置されている花道のことを「仮花道」と呼ぶのだそうだ。

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↑客席の最前列から舞台を見上げると、こんな感じ。

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↑舞台の裏側にも行ってみた。これは「綱元」といって、舞台の上から吊るす幕、小道具、照明器具などをここにある綱で結んで、たとえば場面が交代する時に急いで上げたり、あるいは下げたりってのを手動で制御するために使うんだって。

最近の劇場だと綱元をコンピューターで自動制御してるところもあるらしいのだけど、ここのように手動でやってるところもあるそうで、これもなかなか大変な作業らしい。タイミングがズレたら劇が台無しだし、重さの調節とかもあるだろうし。裏方さんって本当に大変なんだなー。勉強になった。

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↑こんなところにも奈落の入口が。っていうか、あれ? 順路はこっち、って書いてる。

ってことは私がさっき入った階段は入口じゃなくて、順路的には出口だったってことか。どおりで、地下の狭い通路の反対側から来る人が多くて、すれ違うのが大変だったのよ。私だけが逆走してたってことか。

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↑舞台の奥に小道具室を発見。入ってみよう。

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↑年季の入った小道具の数々。こんなものまで! ってものもある。

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↑柳家金語楼と桂三枝が描いた自分の似顔絵とサイン。

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↑柳家金語楼は1960年にこの落書きを書いたと記されてる。ただの落書きでも今となっては貴重な財産。

2階の資料室が楽しい

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↑2階席にも上がってみよう。

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↑おおー。2階正面の席はとても見やすいし、距離も全然遠くない。

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↑2階席には2階席の良さがあるなー。

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↑2階席は3~4段ほどの座席しか設けられていない。あまり角度も高さもない建物なので、見やすさを考えたらこのくらいがちょうどいい、という判断なんだろうね。

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↑2階通路にも出演者のポスターが並んでた。この年代になるとさすがに全員分かるぞ。私も昭和の人間だから。

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↑津川雅彦。オトコマエですなあー。津川さんが水害時に復興を叫んでくれなかったら、この劇場は再興できてなかったのかもしれないし、私が今回こうやって見学することもなかったかもしれない。津川さんに感謝。

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↑通路の奥にあった石川五右衛門の何か。説明文を見たけど意味がよく分からない。

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↑これもよく分からない寄せ書き。中央に「FURUTA画」と書かれてた。きっと知ってる人のサインがどこかにあるのだろうけど。

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↑2階の一室。小道具部屋かと思ったけど、どうもそんな感じではなく資料室みたいな感じ。

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↑浪速の喜劇王、藤山寛美。1990年に病気で亡くなってしまったので、絶頂期を私は知らない。

でも小学生時代を和歌山で過ごしたので、週末はいつも松竹新喜劇をテレビで観てた。だからギリギリで寛美さんの笑いを体感できた世代なのだ。

寛美さん、すごく好きだった。子供の頃、関西に住んで松竹や吉本の新喜劇を毎週のように楽しめたのは幸せだったなーと今でも思っている。寛美さんとは関係ないけど「あっちこっち丁稚」が放送される時間帯は友達と遊ぶのを辞めてまでテレビ観てたくらい。

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↑これはチケットかな? いろんな世代、いろんなスターの名前や顔が見える。

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↑こうやって見るとシブがき隊にまで歴史を感じる。

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↑昔はファンの必需品だったブロマイド。知ってる顔もあれば知らない顔もあり。

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↑左上3番目のコント55号。この写真では小さくて見えないけど、すごく若いし、すごくイイ表情をしてて、なぜか涙が出てきた。私は55号の世代ではないんだけど、欽ちゃんも二郎さんも好き。

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↑ギッシリと書かれた嘉穂劇場の歴史。これ読んでるだけで楽しかった。いろんな人たちがここで公演してるのがよく分かった。

エピローグ

何かの公演が開催されている期間中でなければ嘉穂劇場は一般公開されていますので、入場料300円で存分に見学できます。

駐車場もすぐ目の前にあります(駐車料金100円)。

http://www.kahogekijyo.com/index.html
嘉穂劇場
福岡県飯塚市飯塚5-23
0948-22-0266

嘉穂劇場の休館日はどうやら不定期のようです。3月第1週は飯塚市内でひな祭りイベントが開催されていますが、3月4日(日)のみ嘉穂劇場はお休みとなっています。

今回、記事を書くにあたり舞台や演劇に関する用語の意味などについては、以下のサイトで学習させていただきました。知らないことだらけで、とても勉強になりました。ありがとうございました。

http://www.moon-light.ne.jp/termi-nology/

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