[Я]嬉しい思い出は心に刻み、哀しい思い出は川に流す、第二の故郷散策

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30年という年月の凄さと怖さ

和歌山旅行の2日目。前日は和歌山市内を夜になるまで散策したが、この日も早朝から歩く。

かつて住んでいた街。小学校卒業を最後に街を離れ、以来一度も訪れることのなかった街。昔のままなのか。それともすっかり変わってしまっているのか。覚えているのか。それともすっかり記憶から消えてしまってるのか。

かろうじて記憶に残っている最も南の場所に辿り着く。昔、駄菓子屋があった交差点の角。学校が終わり、友達と一緒に寄って飴などを買い食べてた。

「ここは駄菓子屋があった場所」という記録として写真を撮るため、角の建物に近付く。まだ玄関近くに自販機が置かれてる。昔の名残かな、と思ったら、まだそこは駄菓子屋のままだった。驚いた。

子供の頃、確かこの店はそれなりに高齢なおばあちゃんが店番をしていたはず。今はお子さんが、いや、もしかしたらお孫さんが継いでるのかもしれない。すごいな。

30年ぶりに足を踏み入れた矢先、記憶の巻き戻しが超高速で始まる。左右の景色を眺めながら北へ進む。

見覚えのある豪邸。ここは同級生が住んでた家だったはず。今もそうなのかな。駐車場に停まってた軽トラックの荷台に社名が書かれてる。友達の姓と同じ。また1つ記憶が巻き戻る。

友達は今もこの家に居るのだろうか。それとも街を離れたのか。人の気配がないので確認することは出来ない。チャイムを鳴らしてみようかとも思ったが、まだ早朝でご迷惑だろうし、訪問の動機が「30年ぶりで懐かしかったので」というのもヘンかな。不審者みたいだな。

仮に友達が居たとして、お互いどういう反応になるだろう。お互いに対して、まだ12歳だった頃の記憶しかない。それがいきなり40代半ばのオッサン同士で再会する。自分も相手も老けただろう。どんな反応をすればいいのか。あるいはされるのか。

そもそも友達は子供の頃、どんな顔をしていたのか。記憶が巻き戻らない。よく考えたら、それほど仲の良い友達でもなかった。先に進もう。

変えられた場所と、変わることのない本質

事故現場」に近付いて来た。この街を去る2年前、事故に遭って以降まったく近寄らないままだった。

自分の人生を少なからず変えてしまった事故。人間としての機能の一部を削り取られた場所。

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事故が発生した「広場」は消え、土地所有者が倉庫を建てていた。昔の事故を想起させる一切の物は、この風景の中にはなかった。

しかし、道の反対側、同じ土地所有者の駐車場には、事故の際に凶器となった機材が昔と変わらず無造作に放置されていた

あの事故の際、機材の管理がずさんだったこと、二度と放置しないことを約束したと後に親から聞いたはずだが、当の我々が街を離れ、30年も経てばこの有様か。

人間の本質はそう簡単には変わらない。その事実を無感情に眺めながら立ち去る。

手首を負傷した記憶

子供の頃、毎日毎日自分の脚で、あるいは自転車をこぎながら走り回った道をゆっくりと歩く。道の左右に、かつて友達が住んでた場所もゆっくりと接近してくる。冷えてかじかんだ手をぬるま湯に入れて動かす時のように、硬直した昔の記憶が少しずつほぐれていく。

豪邸だった家は今もそのまま残ってるところが多い。あそこに見える家も確か同級生が住んでた。一番仲が悪くて、大嫌いだった同級生。幸か不幸か、そいつの名前をまったく思い出せない。しかし、憎たらしい表情の記憶は蘇ってくる。いま必要な記憶ではない。消去。

一番仲が良かった友達の家も、そのままの形で残っていた。しかし人の気配がしない。空き家になったのだろうか。玄関を見ると表札の文字が薄くかすれている。

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その友達と野球をしていて、打ったボールがトタン屋根の上から落ちてこなくなった。ボールを取るためトタン屋根に登り、向かう途中で床が抜けて落ちた。一部箇所が老朽化で腐食してたのだ。

地面まで落下したわけではなく、腕が引っ掛かる形で屋根に留まり、よじのぼって屋根の上に戻った。そして自分の左手が真っ赤に染まってることに気付いた。トタン屋根の鋭角な部分で左手の手首を切ってしまい、大量に出血していた。

出血量が多かったので、自分も、そして友達も驚きのあまり号泣。場所が手首だったことで友達のお母さんも気が動転し、救急車が呼ばれた。幸い傷はそれほど深くはなく、3針縫っただけで済んだ。今も傷跡は左の手首にしっかり残ってる。

友達のお母さんが何度も何度も謝りに来たのを覚えてる。でも悪いのはボクだから、危ないから登っちゃダメと言われてたのに登ったボクが悪いんだから、と母親にはその度に説明した。その友達とはその後も関係が悪化することなく、最後まで仲良くしてくれた。

当時と変わらないトタン屋根を眺めながら思いを巡らす。右側の手前から2つめ、一箇所だけ他とは違って材質が少しだけ新しいのは、私が踏み抜いて穴を開けてしまい、改修したから。

彼は元気かな。今はどこで生活してるのだろう。

自分が大人になったことを「尺」で実感する

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和歌山は梅の収穫量が日本一。綺麗な花が咲いていた。ってこれが梅の花かどうか自信はない。

私が子供の頃に住んでいた家は、この花のすぐ先にあった。

家は道路から一段高い住宅地にあり、急な傾斜の坂を上る必要があった。とても長く、傾斜のキツイ坂だと記憶していたのだけど、今回行ってみて驚いた。傾斜も全然大したことないし、10歩ちょっとで坂の上に着いてしまった。

坂を上り切った場所には、毎朝通学する時間帯になると近所の友達が来てくれて、少し離れた家に向かって名前を呼んでくれた。その叫びを合図に家を飛び出して友達の元まで走って行く。遅れる時は家から「先に行ってー!」と叫び返す。

坂の上に着いて自宅があった方向を見る。かつて住んでた家は今も残っていた。しかもまだ誰かが住んでいる。窓にはカーテンがあり、庭には洗濯物が干され、自宅前には車が停まってた。

家が現存したことも驚いたが、もっと驚いたのは、坂の上から自宅までの距離。すごく離れてる記憶があった。家を出て友達の元まで走る時も遠いと感じてたし、あんな遠くから声を届かせるためには、よっぽど大声で叫んでくれてたんだなとも思ってた。

しかし今回、坂の上から眺めた時、「え!こんなに近かったか?」と驚いた。実際に歩数を数えてみたら30歩もなかった。もちろん子供の頃だと30歩では到達できなかった。それは分かるが、それにしてもこんなに近かったのか。

小学生だった頃に見ていた風景が街を離れたことで寸断され、30年が経過し、身長183cmの成人になって再び同じ風景の中に立ったとき、風景の変化うんぬんよりも、自分自身の感じる「尺」が子供の頃と現在とでは全然違うのだという、冷静になれば当たり前のことに改めて気付いた。

30年って長い年月なのだ。でも、この場所において自分は12歳から瞬時にして30歳以上も年を取った。懐かしかった場所の記憶が明確であればあるほど、認識する尺の違いにひたすら驚いた。この体験は昔の自宅周辺でも、母校でも、他の場所でも全く同じだった。

住んでた家の写真は、あまり撮ることができなかった。今は「誰かの家」だから、パシパシ気軽に撮影するのは気が引けた。写真を撮る代わりに、少し離れた場所からしばらく眺め続けた。こんな家だったっけー?と記憶をたぐり寄せてみる。ハッキリとは思い出せない。

自宅の横にあった空き地は自分専用の遊び場だった。すごく広い印象だったが、やはり今回眺めてみるとそれほど広くはなかった。子供の頃は広いと感じてたから幸せだった。それでいいじゃないか。でも、意外と狭かったんだな、と感じてしまう今の自分が少し寂しくもあった。

いつか戻りたいと思ってた母校が目の前にある

かつての自宅をあとにして、かつての通学路を歩き、母校に向かう。

母校の校門までは長い上り坂を…と記憶してたが、やっぱりここも尺の違い。上り坂は「子供の頃の記憶」よりも遙かに短かった。

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卒業式以来の母校。やっと夢がかなった

校門を通過し、校舎に向かう。完全に忘れてた校舎の姿が視界に入り、ものすごい速さで記憶が蘇る。壁を塗り替えたのか、外見がむしろ綺麗になっているけれど、校舎も、そして体育館もグラウンドも全く変わってない。完全に思い出した。

入口の近くに校歌の歌詞を彫った石碑がある。眺めてみたが、メロディーは全く思い出せない。さすがにそこまで完璧な記憶領域ではなかった。

教室には児童がいる。確かあそこは2年生の教室だったはず。児童たちは席に座って静かに本を読んでいる。まだ朝の自習時間なのかな。先生の姿は見えず、児童だけ。

児童の一人、女の子がこっちに向かって手を振った。手を振り返そうかとも思ったが、授業の邪魔をするのは悪い。ニッコリと笑みを返してお辞儀をしたら、女の子も笑顔でお辞儀を返してくれた。結局邪魔をしちゃってるな。

大量に写真を撮る前に、まずは職員室へ。不審者だと思われたくないし、無断撮影もしたくない。通報されて逮捕されたら帰りの飛行機に乗れない。

最初に教頭先生が対応してくれたが、視線が明らかに不審者を見るソレ。この学校の卒業生であること、30年ぶりに和歌山まで来たことを説明し、名前と、卒業年度も伝えたが、「で、何をしに来られたんですか?」って、だから懐かしむためなんだけど、それではイカンのかな。

「どこに住まれてたのですか?」「お知り合いは今もおられるのですか?」と教頭先生から幾つか質問を受ける。一番仲の良かった友達の名前を告げると、「ああ、いらっしゃいますね、あの地区には同姓の人が大勢いらっしゃるけど」ってどうすりゃええねん。

途中から校長先生も加わった。卒業年度と、6年生時に担任だった先生の名を伝えると、

「ああ、私がこの学校に赴任したのは確か、アナタ方が卒業された5年後になるのかな、その時に1年だけご一緒でした。翌年に違う学校へ移られたんですけどね」

と校長先生。今はもう退職されたけどご健在で、校長先生とも親交があるとのこと。ようやく話が噛み合い始めた。写真撮影させてもらいたい旨を伝えると、個人の思い出のための撮影や使用であれば問題ないですよ、と言って頂いた。ありがとうございます。

校舎の中もたくさん撮影させてもらった。校長先生との約束なので写真は公開しない。授業が始まってるようだったので、校舎の2階に行くのは自重した。1階だけでも十分懐かしかった。

今回の旅行で唯一、涙が出た光景

校舎の外に出てグラウンドのあちこちを撮影開始。当時とほとんど変わってない校庭。200枚以上、写真を撮った。これでもう忘れることはない。

ブランコも当時のまま。給食を食べ終えて校庭に走り出て、早いもの勝ちでブランコの争奪戦。なぜかブランコはいつも一番人気。5分ほどで次の人に交代するという暗黙の了解があったけど、あの一番大嫌いだった同級生は絶対に誰とも代わらず独り占めしてた。しょっちゅうケンカ。

鉄棒もシーソーも変わらない。いろんな遊具の写真を撮りつつ、ゆっくりと校庭を巡っていく中で、1つのオブジェの前に辿り着いた

校長先生、申し訳ありません。この写真だけ、ブログで使わせてください。今回の和歌山旅行におけるクライマックスとも言うべき衝撃だったので。

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ものすごく年季の入った遊具。すべり台らしい。といってもコンクリートで固められた傾斜以外の部分は土が削られてしまって、すべる場所がもう存在しない。上の写真を撮った時点で、まだ何も気付いていない。

すべり台の頂上にある手すり部分の下に、何やら文字の書かれたプレートがある。文字がかすれていて解読しづらかったが、よーく見てみると、

昭和●●年度卒業記念 すべり台

え? それって、俺の卒業年度じゃないか!

ここでようやく思い出した。卒業記念としてすべり台を寄贈したことなんて、卒業してからこの日に至るまでの30数年間、まったく思い出すことすらなかった。

うわああああーーー、とすべり台を眺めながら唸り、そして絶句。

気付くと涙がボロボロ出てた。なぜ泣いてるのか自分でも分からない。懐かし過ぎたのか、完全に消滅してた当時の記憶が突然蘇ったことへの感動なのか、それとも寄贈しておきながら完全に忘れ去ってた自分の薄情さが哀しかったのか。

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卒業式の数日前に完成したことを徐々に思い出し始めた。完成直後は綺麗な半円形で、プリンみたいだね、と皆で語り合ってた。

当時から過疎が進んでた街。生徒数も減り続けていたし、今はもう廃校になってるんじゃないだろうか、と成人してから心配になりネットで調べたこともあった。

小学校はその間ずっと子供たちを見守り続けてくれて、30年以上にわたって後輩たちがこのすべり台で遊んでくれたのだ。その中には自分が知ってる友人の弟妹や、もしかすると息子さんや娘さんがいるのかもしれない。

子供たちが歓声をあげながらすべり台で遊んでる姿を想像する。一人一人の元気なステップが少しずつ土を削り、時間を刻む。この場所に存在しなかった自分自身の長い時間が繋がる。

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完成直後は、土がまだ固まっていないから、ということで遊ぶのを禁じられていた。卒業生の我々がようやく「自分たちの」すべり台で遊ぶことが出来たのは、卒業式の前日。

頂上部に上って校舎を眺めながら、「明日で卒業か、その後すぐ引っ越すんだよな」と考え、級友たちが歓喜の声を上げて遊んでる横で一人泣いてたのを思い出した。この頂上部に上ったのは、あの日以来。30年以上経って、また泣いてんのよね。成長してない。

イヤな思い出は川に流そう

校舎に戻ると、校長先生が待っていてくれた。何やら文集のようなものを持っている。それに見覚えがある。

「これ、創立●●周年の記念文集ですが、覚えてらっしゃいますか?」と校長先生。はい、覚えてます。実家に1冊あるはずです。

その文集の中の1ページを見せてくれた。「●●年度の卒業生ということは、この学年になるんですかね」

しばらく子供たちの写真を眺め、見覚えのある顔を指差して告げた。これ、私です。

担任は、当時まだ20代半ばの若い女性の先生だった。今まで完全に忘れてたけど、突然記憶が蘇る。◆◆先生ですよね、と校長先生に告げると、「そうですそうです、覚えてらっしゃいますねー」と笑顔。ようやく不審者ではないと証明できたみたい

あの美人だった◆◆先生も、計算すると今は還暦前になるのか。うっひゃー! そりゃそうだよな。自分だって中年のオッサンなんやもん。

校長先生が違うページを開ける。別の学年の集合写真。担任の先生を指差し、「これ、私の母なんです」と校長先生。えええええー!名前を聞いて思い出した。担任になったことはなかったけど、覚えてます覚えてます!そうですかー。親子でこちらに赴任されてるなんて、なんという歴史。

その後、校長先生と30分以上も雑談。お忙しかったはずなのに大変申し訳ありませんでした。でも、母校の話をたくさん聞けて、私が去った後の街の変遷も教えてもらって、心の底から嬉しかった。ありがとうございました。

廃校どころか、現在の生徒数は30年前よりも増えてた。それも嬉しかった。

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次の目的地へ移動する途中、日高川を渡る。いろんな思い出のある川。

一度、台風が和歌山を直撃し、台風の目に入った時に日高川を見に来た事がある。危険なので河川の近くには行かなかったけれど、それまで狂ったように吹き荒れてた暴風雨がピタリと止み、完全な無風になっていた。でも、空を流れる雲が気持ち悪いほど速く、そしていつも穏やかなはずの日高川の色は茶色く濁り、不気味にうねっていた。あの光景は今も忘れない。

思えば、和歌山にいた頃は日高川を見て育ち、鳥取では日野川という大きな川があった。福岡に来てからは紫川、そして遠賀川という巨大な川と縁がある。自分はいつも大きな川の近くで生きてきた。だからウォーキング大会に出掛けると必ず、川の写真を撮ってしまうのだろう。川が好きなのだ

久しぶりに見る日高川の穏やかな流れを橋の上から眺めていたら、突然ポンと記憶が蘇った。

ああー、あいつ、▲▲▲▲って名前やったな。

大嫌いだった同級生の名前。なぜここで思い出してしまうのか不思議だったが、「悪い思い出や記憶は、川に流してサッパリしちゃえよ」ってことなのかもしれない。そうすることにしよう。

 

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